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キリストが十字架に懸けられた意義

上図は十字架であるが、この図形を日本古語で高御産巣日といい、伊勢内宮建築の千木はこの形に象ってある。縦は空間(実体)をあらわし、横は時間(実相)をあらわす。直線の交点に当るところは質量である。哲学者は質量と言わず価値という。この三つを物理学ではCGSであらわす。CGSは万物の基本体制である、始源の大自然法則である。キリスト教はこの大自然法則の図形を最高の象徴として掲げている。日本語でこれを霊辻(ひつじ)といふ。ロゴス(霊)の十字架(クロス)である、ヒツジはすなわち羊である。

https://www.isejingu.or.jp/about/architecture/

上図は人間の自我の図示である。古代日本語でこれを神産巣日といい、伊勢外宮の千木の形である。始めもなく終りもない、仏教の所謂無明そのものである。これを羔羊(こひつじ)と言う。

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上図はキリストなる人間的自我が大自然法則の上に架けられた形である。換言すれば無明なる自我が自然のロゴスに順応し得た姿である。これをイエス・キリストと言う。これが従来のキリスト教の奥義であって、同時にすべての宗教の究極境地である。孔子はこの境涯を説いて「己の欲する所を行ひて矩を超えず」と言った。


この形を更に上図の如くすると、これを日本古典では「大八島国」(八尋殿)という。旧約聖書では「アダムの肋骨」という。馬太伝ではべテレヘムの「馬槽」という。黙示録では「蝗(いなご)」の形といい、これが「生命の城(まち)」の町形である。仏教では花に擬えて「八朶(はちだ)の蓮華」といい、周易ではこれが河図・洛書の骨組をなすもので、すなわちこの図形がロゴスの展相の基本図形である。

だが、黙示録ではキリストの再臨をキリストの再臨と言わず「羔羊の婚姻」といい、「生命の城」の出現と説いている、その羔羊は十字架を負っただけのただの羔羊ではない。
その羔羊は「シオンの山に立てり」と示されてある。シオンとは言語の子音を意味する謎である。生命の実相は言語の父音と母音が結び付いた子音として自覚され表現される。
このシオンの山を踏まえて立った羔羊の姿を略示しよう。


これが天に在す父の名、ロゴスと共なる再臨のキリストの姿である。すなわちこれが「生命の城」の姿である。神即言葉の道とはこの生命の城の内容をなす時間と空間と価値と、そしてその間に生滅する生命の律動を受信し表現する言語の運用原理に外ならない。宇宙にはこれ以上の何物もなく、これに含まれざる何物もない。生命の城とは生命の体系と展相と価値観に即した言語の範疇である。仏教では斯の如きを總時(そうじ)(摩尼鉢納摩(マニハンドマ))といい、日本では八咫鏡という。そうしてこの様な言語の範疇が再び世界に顕れて人類の理性が再び活動を開始することが天の岩戸開きであり、キリストの再臨であるのである。

普く地の面に散りながら、しかも神の選民しての誇りを失わず任務を忘れず、遂に人類の第二の種智を完成することが出来たソロモンの子等に向かって我等は呼びかける。今こそ我等寄り集まって、モーゼの遺業の完成とキリストの再臨のための祝典を挙行しようではないか。その祭典のための学的準備はこの日本のうちに「甕の上高知り甕の腹満て雙べて」神代ながらに整っている。それと共にこの祭典を東洋に於ける最後の最大の七夕の星祭りたらしめようではないか。その祭典の式場はモーゼとキリストの墳墓の地日本でなければならない。いざ、ソロモンの子等と日本人との主催によって、この「羔羊の花嫁の婚姻」の饗宴に普く全世界の人類を招待しようではないか。この一文がそのための「日本の招待状」であり、同時に「日本への招待状」であることを庶幾(こいねが)う。

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