民主主義のコストをケチる自称民主主義者達
今回はちょっと長目になりますが、お付き合いいただきたく。
都知事選で名を落とした人もいれば……
悲喜こもごもの人間模様を見せた先月の東京都知事選ですが、その中で名前を上げた方もいらっしゃいます。
その筆頭ともいえるのが、noteでも結構多くの記事を書いておられる倉本圭造氏ではないかと思われます。
恐らく自分がスキを飛ばしているであろう氏の記事には一定の法則というか、共通項があります。
徹底した現場主義
三方一両得の精神
話し合いから妥協点を見つけていく
何のこっちゃない、氏が繰り返し説いているのは現代日本社会において存在する基本原則というかコモンルールのようなものです。
ところがどっこい、現代日本社会ではこのコモンルールがかなりの部分で共有されていないのでは?という場面に頻繁に出くわすようになっているようです。
徹底した現場主義ですが、予算執行・決裁者と現場の認識の乖離が顕著になっているようです。例えると、真夏の炎天下での工場・現場作業は熱中症対策必須なので諸々の予算を現場側は要求するのですが、高齢の予算執行・決裁者は大体「わしの若い頃はそんなに暑くなかった」「今時の若者はクーラーに当たりすぎてたるんでいる」という認識なんですよね。当人が作業をしていた時代は気温が30度を超えるのは大体1月くらいで最高気温が32~33度でしたが、30度以上の真夏日が4ヶ月近く続き最高気温が35度超えなんて珍しくない現在の酷暑環境は知りません。
そもそも、現代日本人の多くは現場や工場での仕事を極端に嫌がります。「手取り月40万の現場・工場勤務より手取り月15万の都市の事務所でキラキラワーク」という言葉が、それを端的に表現しているでしょう。三方一両得の精神ですが、これに関しては驚くほどありません。これは自戒を込めてもの話なのですが、こと政治経済社会系の話になると大半の人が語っているのは「自分以外のどの属性に損をさせるか?(ババを引かせるか)」という話なんですよね。
いや、わからないでもないんですよ。打ち出の小槌なんてあるわけない、これからはどんどん縮小していくんだから、誰かが犠牲にならなきゃいけないんだ!的な思考。
でも、それって「自分は絶対に犠牲の羊にはならない」という前提で話してますよね?そもそも、その思考の結果が失われたN年の原因の一つなんじゃないでしょうか。何故、失敗し続ける思考から離れるという事ができないのでしょうか。
などと突き詰めていくのですが、失われたN年の結果、「ビジネスとは強者が得をし、立場の弱い者たちに損を押しつける」と勘違いしたビジネスパーソンが圧倒的多数派になってしまった影響ではないかと考えられます。話し合いから妥協点を見つけていく……というのもあまり見受けられません。話し合いならまだ実があるのでしょうが、エックスで横行している討論もどきの論破合戦を見ると、「時間の無駄だな、あほくさ」としか思われないのではないでしょうか。しかも、その話題が生産性だったり効率化だったりするのですから、完全にギャグでやっているとしか思えません。
「冷徹な視線に立った現場主義」「三方一両得」「話し合いで妥協点を探っていく」という事が現実ではできていないからこそ、これらコモンルールを説く氏の論調に大きな共感が寄せられるのは必然なんだろうな、と感じる次第です。
一方向メディアにコミュニケーションを頼りすぎたツケ?
上記3点でも、1についてはビジネススピードの進化や通信技術の進歩などで解決はできます。2についても、ビジネス環境の変化や安価な労働力の供給源という名前の移民待遇に放り込まれてきた氷河期世代の老化に伴う労働人口の大幅な減少によって必然的に解消していく方向にあると楽観的に見ています。
しかし、3だけは悲観的に見ざるを得ません。
振り返れば、我々は新聞→ラジオ→テレビ→2ch(現5ch)→X(旧Twitter)といった一方向メディアに慣れきってしまった。それどころか、話し合いによって落とし所を探る行為を、たとえ久米宏や筑紫哲也といった党派性に塗れたリベラル系電波呪術師たちが「談合」とか「料亭政治」とか「主権者不在」などという名目でレッテルを貼ってきた、土井たか子の「駄目なものは駄目」発言から一歩も進歩がない進歩的文化人(笑)を崇めてきた恥ずかしい過去があるとはいえ、忌み嫌いバッシングしてきたという「歴史的事実」が存在します。
そして今では、我々の多くは話し合い議論をブラッシュアップしていったり、妥協点を探り見つけていくという作法を知らない状態に陥ってしまっています。
その極端な例がツイッターフェミニストなる怪物たちの存在です。アレらの主張は色々多岐に渡りますが、内容を見ると兎に角「男が譲歩しろ」の一点張りです。
(条件の後退はしないという意味で)引かぬ!
(相手への妥協は絶対しないという意味で)媚びぬ!
(自らの主張の客観性の無さを反省しないという意味で)顧みぬ!
という、どこかの聖帝様の如き暴力性丸出しの言論が堂々と公衆の場で開陳され、それに対して恥じるどころか堂々としているケダモノの群れが公道を歩いている状態です。
高コスト化する話し合い
何故、ツイッターフェミニストなる怪物たちはここまで譲るというのを知らないのか?いや、あの方々だけではない、多くの場面で「互いに譲歩する」という行動が見られないのでしょうか。
物心共に譲歩できるだけの余裕がない、というのは一つあるでしょう。
しかし、それ以上に話し合いというものが高コスト化してしまったからではないでしょうか。
都市部の人口過密地域を例にすると、まずライフスタイルも生活時間帯も多様な住民の過半数を一カ所に集める時点で高コストです。都市部はライフサイクルが昼夜逆転している夜勤職も多いですから、彼らの合意を取り付けるのも一苦労です(そもそも夜勤職は自律神経の回復力が高くないと務まりませんが)。
そもそも、地域を構成する集合住宅一個分の管理組合すら機能しているとは言い難い……というのが現状です。総会で決まるハードルが高すぎます、これでも規制が緩和された部類なんですけどね。
では地方の過疎地域ではどうかというと、今度はまず市町村合併等や過疎化に伴う地区統廃合の結果、集合場所までの距離が物理的に遠いという現象が発生しております。免許を返上し買い物難民化した高齢者に、集会所まで徒歩で来いとか酷でしょう。タクシー会社もありませんので、乗り合いバスをチャーターするんでしょうか?それに、集会所自体が老朽化しています。
どちらにしろ、現代では住民の一定数が同じ時刻に同じ場所に集合する、というだけで多くのコストが必要となる、というのは共通認識として持っていただきたいです。
低コスト民主主義の弊害
話し合いが高コスト化していくのであれば、「じゃあコストカットすればいいじゃん」という現代日本人の時代精神が発揮される事になります。
話し合いによる合意が高コスト化しているのであれば、その代わりを用意すればよい……そもそも話し合いなど無駄なのだから、エスタブリッシュメントが「政治的ただしさ」「財政的ただしさ」を用意し、それに従っていればよい、反対する連中は論破して黙らせよう……。
確かに政治的・財政的ただしさの押しつけと「論破」は圧倒的な低コストで実現できました。しかも、やっている側は圧倒的な精神的勝利が得られるのです。
正し、その弊害も甚大です。
圧倒的低コストではあるのですが、生産性に関しては皆無に等しいです。何せ、議論による発展が全く生まれないのですから。
博打における胴元が絶対に損しないのと同様に、政治的・財政的ただしさという基準を決定する側(主に経団連や財務省)が圧倒的に強い。
そして、さらなる弊害は以下の通り。
都知事選の立候補者があまりにも増加したので、候補者看板の枠が足りず、不足分は枠外にテープや画びょうでクリアファイルを固定し、ポスターを貼るという東京都選管のまさに「ドケチジャパンここにあり」な対応。
原因は立花某の相変わらずの制度ハックによる選挙ビジネスであり、民主主義コストが最も高い東京都で行われた都知事選とはいえ、「すべての立候補者は平等に機会を与えられる」という、形骸化しているとはいえ守らなければならない民主主義の建前さえかなぐり捨て、民主主義制度維持コストすらケチる(しかも最も金銭的には豊かであろう東京都でこの有様)、その姿は本邦の国力的な黄昏を感じずにはいられません。
民主主義維持コスト費用も出す覚悟がないなら民主主義やめちまえよ。
以上をもって、拙文を締めさせていただきます。
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