「どこでも」と言われると逆にどこにも行けない
どこでも住めるとしたら?
なんと夢のある言葉だろう。
ある人は海外旅行の思い出の地に。
またある人は念願の憧れの地に。
そしてある人は現実ではあり得ない場所に。
「どこでも」と言うのはそう言う事だ。
小学校6年生の娘に聞いてみた。
「えー。友達と離れるのが嫌だからここで良い。」
なんと夢の無い事である。
小学校1年生の息子に聞いてみた。
「スマブラとマイクラが出来るならどこでも!」
いや、そういう事じゃ無い。
では妻にも聞いてみよう。
「それより醤油足らないから買ってきてくれる?」
割と近くにスーパーマーケットがある所に住んでいて良かった。
我が家の人間に聞いたのが間違いだった。
深く考えてみる。
先ず私は海が好きだ。
釣りもたまに行っている。
海が綺麗なところが良い。
海沿いの安アパートで、その日暮らしをしながらのんびりとした時間を過ごす。
最高じゃないか。
でも潮風が心配だ。
洗濯物にまとわりつく。
車も錆びてしまうかも知れない。
その日暮らしとの事なので、家族で移住は出来ない。
これは難しい。
では山ならばどうだろう?
丸太作りの家で自給自足の生活。
たまにバーベキューなんかをやっても良いかも知れない。
ピザ窯も作ってしまうか。
でも虫は多いだろうな。
私は平気だが妻はダメだ。
熊も出るかも知れないし、急な病気や怪我をした際に街へ行くのも何時間かかるか。
やっぱり都会か。
ビルの最上階。夜景も最高級。
買い物も不自由せず、交通の便も良い。
もしかすると芸能人とお近づきになれるかも…?
でもなぁ。
そもそも維持費が凄いな。
住んでいいとは言われているけれどその後の生活は保証されていない。
エレベーターが止まってしまったら階段で最上階はキツい。
そして、仮に芸能人に会えたとしても私は人見知りだ。
いっそ宇宙にでも住んでしまうか。
宇宙から眺める地球の美しさ。
必要な物は事前に準備しておこう。
夢の様な生活。
この場合は最低限の生活援助はある筈だ。
でもきっと寂しい。
家族はいるとしても、他人と触れ合えないのは辛いと思う。
そして何より地が、空が、空気が、恋しくなる。
想像ではあるが、容易に想像出来る。
結局、私は何処に行きたいのだろう。
行きたい場所が無いって事は現状に満足しているという事か?
いや違う。
別に不満では無い。だが満足はしていない。
きっとそういう事なのだ。
行きたい場所なんて無いのだろう。
今の場所でもそれなりに不満はあるが、それなりに満足はしている。
友達も近くにいるし、スーパーマーケットは近くにあるし、スマブラだってマイクラだって平日1時間まではやり放題だ。
身も蓋も無い事だが、住む場所なんて何処だっていい。
そこで誰と何をするかなのだ。
釣りをしたって良いし、バーベキューしたって、夜景眺めたって、月に行ったりしても良いんだ。
そもそも初めからその気になればどこにでも住めるし、どこにだって行ける。
勿論、その場所でnoteに「どこでも住めるとしたら」なんて文章を書くのも自由だ。
屁理屈をこねくり回したが、こういう題材は好きだ。
ただ私はどうにも捻くれた人間で、マイナス思考で、消しゴムの次くらいの価値の人間なので、素直になれない。
本当の事を言うとどこでも住めるとしたらという回答はある。
バカな話ではあるし、オチとしては少し弱いが。
もし本当にどこにでも住むことが出来るのならば、
実家で祖母、親、兄妹家族みんなが揃って、それぞれの子供達と大集合して大盛りの餃子を食べた。
あの時、あの瞬間のあの場所に住みつきたい。
もう叶わぬ願いだとしても「どこでも」というなら想像するくらいは許されるだろう。
そんな事を考えながら、それなりに満足しているこの場所で、私は妻と子供達と今日餃子を食べている。