『母の神秘十字』
お耳汚しを失礼致します。
皆さんは『手相・顔相』の類を信じますか。
手相学といえば、島田修平さんでもお馴染みですが、その起源は紀元前3000年頃のインドに遡ります。また、手相学は古代ギリシャでピタゴラスによって発展された学問でもあります。
手相にはいくつかの珍しい形があり、その中でも『神秘十字』と呼ばれる手相が存在します。感情線と頭脳線の間、中指の下辺りに『十字クロス』が現れていると、それが『神秘十字』として鑑定されます。この手相は、強力な霊感や直感を持ち、その能力を自分だけでなく他者のためにも使う使命があるとされています。
『薄い十字』を片手に持つ人は100人に1人、両手に持つ人は500人に1人とされており、『濃い十字』を片手に持つ人は400人に1人、両手に持つ人は4,000人に1人という統計があります。総務省のホームページによると、2004年12月時点で日本の総人口は約1億2,784万人でしたので、最も希少な『濃い十字』を両手に持つタイプの人は、当時で約3万人強と推定されます。
これは多いのか少ないのか…。
標本サイズ(サンプルサイズ)と云う考え方があります。要は『神秘十字』を持つ人が『霊感を持ち、他者のために生きて来た』と結論づける為には、何人を調査すればその性質が確からしいと言い切れるのかと云う考え方です。
以下の数式を頼りに計算してみると、
n=(Z**2)・p・(1-p)/(E**2)
・n:標本サンプル[人]
・Z:信頼水準に対するZ値
└信頼水準99%:Z値:2.58
└信頼水準95%:Z値:1.96
└信頼水準90%:Z値:1.64
・p:母集団内で予想される属性の割合=50[%]
・E:許容誤差=5[%]
解:
└信頼水準99%:Z値:2.58 → n = 665.64人
└信頼水準95%:Z値:1.96 → n = 384.16人
└信頼水準90%:Z値:1.64 → n = 270.60人
感覚的な話ですが、有意水準を5%と設定した場合、95%以上の信頼度を得る為には、最低でも約384人の『濃い十字を両手に持った』人をサンプリングする必要があります。更に信頼度を99%に引き上げる為には、最低約666人のサンプリングが必要です。この人数を超えても影響はほとんど無く、統計的に十分に確認可能で確実であると言えます。
しかし、たかだか666人程度のサンプルから3万人の性質を確定させるには、やや不足感があるとも感じられます。
とはいえ、長い年月を経て体系化され、経験則から因果関係を抽出して来た学問だからこそ、現代まで存続出来たと考えても差し支えないでしょう。
但し、重視するテーマや他のツールとの組み合わせ、鑑定士の経験やセンスによって、結果に違いが生じることもまた事実です。
これは、私が子供の頃に母から聞いた話なのですが…。
****** 母のエピソード①(雪合戦) ******
「九州でも雪は降るわ。スキーだって出来る所があるんやで!」馬鹿にするなと言わんばかりに、子供の頃を振り返って話してくれました。
「そう言えば、小学校の2、3年生頃に雪が積もってな、先生の計らいで泥雪になる前に、今日の授業は雪合戦!そんな日があったんよ。」
「いつも厳しく悪さをするとゲンコが飛んで来る先生だった事もあり、日頃と違う授業環境にテンションが上がった一部の男の子が、悪戯心で小石を詰めて投げた雪玉がお母の眉の上に当たってな、腫れ上がってパンダみたいになった事があったんよ。」
「お医者さんには、タイミングがズレて居たら目に当たって失明する処やったぞって怒られたけど、お母が悪いんとちゃうやんなぁ。」と笑います。
「じいちゃん怒ったやろう?足が汚くなるって、大人になるまで正座もさせんかったんやから。」と私が聞くと、
「じいちゃんに言ったら大事になるから、ばあちゃんには口止めされてたんや。」「でも、学校の先生も誰がやったか分かってたし、後から男の子の親が、仕事でじいちゃんの居らん昼間に誤りに来たらしいわ。」
「よう傷跡が残らんかったもんやわ。」
****** 母のエピソード②(公民館) ******
「そう言えば、じいちゃんの転勤で長崎のとある村に引っ越した時やったかなぁ。」
当時小学校1年生で、近所の友達に誘われて近くの公民館で催されて居たイベントに出かけた事が合ったそうで、皆がお弁当や酒の肴などを持ち寄って、カラオケ大会や色んな出し物をして居たそうです。
「中2階の部屋に入り切らんくらい沢山の大人が、入口付近まで溢れて立ち見でガヤガヤして居てな。」
「友達は諦めて帰ろうとしてたんやけど、どんな出し物をしてるか見たいから、子供だったもんで、大人の間をスルスルと擦り抜けて舞台に手が掛かるくらい近くまで行けたんよ。」
「町内会のおばちゃんにお菓子を貰って、手品か何か見てたんかなぁ。急にドーン!って大きな音と共に体が宙に浮いたかと思ったら、一瞬にして辺りが白煙で覆われて、あっちこっちで悲鳴が聞こえ出したんよ。」
「何事が起きたか分からんで居ると、少しずつ白煙が晴れて来たから周りを見渡すと、中2階の部屋に人が入り過ぎて床が抜けて、人が重なり合って大事故が起きてたんよ。」
「お母は大丈夫やったんか。」と聞くと、
「お母なぁ、体勢は変わらずにちょこんと正座したまま落ちて、何でか分からんけど、舞台に上がる階段が傘になって、大人数の大人の下敷きにならんで済んでたわ。」
多くの大人達が折り重なり、中には気を失って血を流す方も居た様で、階段の下で滴り落ちる血を服に受けながら、隣に居た友達の手を引いて立ち上がり、「帰ろっか。」と貰ったお菓子の袋を大事に抱えて帰宅したそうです。
小さな村なので、内職中の祖母の所にも直ぐに話が伝わって来て、慌てて家を出た所で帰宅した母とバッタリ鉢合わせて、人の血が染みて真っ赤に染まった母の服を見て驚いたそうですが、友達共々怪我は無く、 「お菓子貰ったもんねぇ。」と笑って帰宅したのだそうです。
その惨事は、村の青年団や消防団も駆けつける程の大騒動になり、翌日の朝刊に早速掲載されて居たそうです。
****** 母のエピソード③(階段落ち) ******
「そうそう、あんたがお腹に居た時、こんな事もあったなぁ。」
「夕食の買い出しから帰って来て、団地の階段の一番上から踊り場まで、足を踏み外して転げ落ちたんよ。」
「咄嗟にあんた守らんといかんと思ってな、ニャンコ先生もビックリな受け身やったで。」
「通りすがりのおじさんに助け起されたけど、買い物袋をぶちまけて恥ずかしかったなぁ。」
「怪我せんかったんか?」と私が聞くと、
「脛がズル剥けて、破傷風になる!この子守らんといかん。」と、急いで帰って風呂場でオキシドールを1ビン掛けて消毒したのだとか。
「痛かったぁ。もう沁みる沁みる。ブクブク泡出たわ。」と豪快に笑うのです。
「赤紫色に腫れて歩かれんくらい痛かったけど、その日、休まんと夜勤に行ったからな。」
母自身もそうですが、周りに居る誰かも母の守護様のご加護がある様で…。
****** 私のエピソード①(溺れた・餅詰めた) ******
私が伝い歩きを卒業した頃、ベランダにあった父が飼っていた鯉の水槽に頭から落ちて溺れかけた時や、正月の朝食で餅を喉に詰まらせてチアノーゼになった時、母がすぐに気づいて引き上げてくれたり、喉の奥から餅を取り出してくれたりしました。何度か死にかけたところを母に助けられており、母には本当に頭が上がりません。
****** 私のエピソード②(大病からの寛解) ******
私が大病を患い寝たきりになった際、仕事を辞めて付きっきりで看病をしてくれました。
変形した手足の指は重なり、腫れた肘膝関節は伸展・屈曲が出来ず、屋内での移動は匍匐(ほふく)前進、一度ベッドから降りると自力で戻れない。そんな状況でも風呂に入れてくれました。
脊椎は固まり寝返りすら打てず、朝起きた時には肋骨の繋ぎ目も固まって炎症を起こし、痛みで呼吸が出来ずにのたうち回って居た時でも、傍に居て静かに背中をさすってくれました。
皮膚は頭の先から足の先まで、厚みのある痒みを伴う紅斑がマダラに広がり、見る人が二度見するほど醜くただれていました。毛は抜け、手足の爪は幾重にも裂けて反り返ってしまい、毎日8時間以上薬を塗ってもらう日々が何年も続きました。原因も治療法もわからず、医者にも見放される状況でしたが、或る時、父が拝み屋のお婆さんの話を聞いて来てからは、2週間毎に『お気持ち』を添えて『お加持』を受ける為、車で連れて行って貰ったものです。最終的には拝み屋からも見放され、どうすることもできない状況に追い込まれていました。
長いあいだ無職で自暴自棄になり、文字が読めなくなり先行きの不安に圧し潰されそうになって居た時でも、母だけは、
「あんたは大丈夫。」 「根拠のない事を言うなって、いつもお母に食って架かるけど、お母には分かるねん。あんたなら絶対大丈夫。」
そう言っていつも見守ってくれました。
その裏で、母が自身のネットワークを駆使して徹底的に調べてくれたお陰で、かつての教え子だった看護師仲間から幸運が舞い込みました。
私と同じような症状で仕事を辞めた友人の旦那さんが、1年前に日本で認可された新薬が体に合い、現在では配送業の肉体労働ができるまで回復したという話を聞きました。
「ただし、一生薬を使い続ける必要がありますが…。」と。
強力な薬でしたので、他の痛み止めなども併用し主治医が検査結果と睨み合いを続けた約1年後には、自己注射を始める事が出来る様になり、完治には至らなかったものの、寛解を維持する手段を手に入れ、就職にも恵まれました。いつもこのようにして、母は私に幸運を引き寄せ、支えてくれていました。
****** 母のエピソード(神秘十字) ******
さて、いくつかの小ネタを羅列しました。察しの良い方はもうお分かりの通り、母の両手には濃い神秘十字が刻まれて居ます。
易学を生業にする人は他と掛け合わせて確立を上げるそうで、生前『四柱推命』を教えて居た父方の祖母も多分に漏れず『九星気学』や『姓名判断』、『手相・顔相・家相』なども広く勉強して居た様で、折に触れ親族にもアドバイスをくれて居りました。
ある時、母の生年月日を空で勘定しながら、「あんたは人の為に生きる星の下に生まれて来てるなぁ。一生誰かの看病をせないかんで。」「私の老後は安泰やな。ちゃんと看てな。」と解き始めました。
母は信じ過ぎ無い人だった事もあり、少しイラッとした感じで、「じゃぁ、私は病気に成れ無いですね。」とチクリと返すと、
「大丈夫。あんたは守護の力が強いから。」と、向かい会って座ったお互いの目の前で、祖母は掴んだ母の両手を仰向けに開いて、『神秘十字』について教え始めたそうです。
母は一度大きな病気で手術を経験して居た為、話半分の様でしたが…。
****** 母と恩人のエピソード① ******
「子供の頃から命を助けられたり、上手な先生に手術をして貰えたりと、お母の人脈のお陰やな。ほんまお母様々やわ。」と冗談めかして言うと、
「あんたあの子にお礼言うたんか?」
「あの子も大変やったんやからな。本来、人の事を構ってられる子と違うねんで。」
「あの子はあの子でお母に恩返ししてくれたんやろうなぁ。」
当時、看護婦だった母が新人育成の一端を担って担当して居た相手が、私の恩人だったそうです。 在る朝、朝礼の引継ぎが終わった後、スタッフの誰一人として、彼女の様子がおかしいと気付いて居らず、気にも留めて居なかった様なのですが、母はどうもいつもと様子が違っておかしいと感じたらしく、
「体調悪いんか?」「今日は私が仕事量の多い患者を受け持つから、あんたは風呂掃除しといで。ゆっくりで良いからな。」と、頑張り屋気質の彼女も立てつつ、職場での体裁を踏まえた指示を出したのだそうです。
暫く経って、母が一通りの処置等を終えて詰所に戻ったのですが、まだ彼女は風呂掃除から戻って居なかったのです。他のスタッフに聞いても朝礼から見て居ないと言うので、まさかと思い風呂場に駆け付けてみると、彼女は意識を失って倒れて居たそうです。
幸いにも場所が病院だった事もあり、即検査即入院となり、その日に胃癌が見つかり即手術。かなり進んで居たそうで胃の2/3を切除したそうで、 ドクターや婦長曰く、母が気付かなければ手遅れになって居たとも。
彼女は療養後に職場復帰し仕事を頑張って居られたそうですが、気力と体力にギャップが生じて、休んだり復帰したりを繰り返して居た様です。
何度目かの職場復帰で、病棟から外来に異動となり、採血室やCT・レントゲン室で従事するも、とっさに動けず、心ないスタッフのモラハラが原因で、どんどん気持ちが落ち込んでしまった様です。
ある時を境に突然自主退職してしまい、今ではどこで何をされて居るのか連絡が付かないそうです。 彼女は私の命の恩人です。もう一度会ってお礼が言いたいのですが…。
処で母方の祖母も、母が傍に居れば安心だった様です。
保育園に通う私と母と祖母で里帰りをした際、新大阪の新幹線乗り場のホームでの事、
「心臓ん薬、忘れんでちゃんと持って来た?」と母が祖母に聞くと、祖母は、
「うんにゃ。持って来とらんばい。あんたが一緒やけん良かろう思てくさ。」と、ひょうひょうと語るのです。
母は、「え~!!」「ウチが居ってん薬ん無かったらどうにもならんじゃろ!ウチが医者でんどうにもならんばい。」
焦った母はカバンの中を探し廻り、有事の際にと忍ばせて於いた頓服薬を思い出し事無きを得たのでした。
「ちかっとでもおかしかて思うたら、すぐに言いんしゃいよ。」
「切り上げてこっちに帰らんば!」と母が言うと、
「え~。楽しみにしとったとに~。」と祖母。
「我慢せんでよ!」この時の母は、戦々恐々として居たのだと思います。
以上、『母の神秘十字』と云うお話でした。
ご静聴ありがとうございました。