『副耳も福耳?』
お耳汚しを失礼致します。
2つある物はどちらかに偏って居ると云う事は良くある話で、シンメトリで在るよりも寧ろ、デザイン的に少し崩した方が、より親しみ易く自然な雰囲気を醸し出すケースも間々ある様に感じます。
私の場合、生来、右耳の可聴性に難が在り、帳尻を合わせる為か、『副耳』と云う出来物が付いて生まれて来ました。
『長短相補(ちょうたんそうほ)』と云う言葉が示す様に、私が尊敬する方々の中には『読唇術』や『エコーロケーション』、或いは『点字』や様々なデバイスを用いた『代替法』などを活用し、機能する五感をフル活用して健常者さながらの振舞いに驚かされる事があります。
そして稀に五感が研ぎ澄まされた事により、人ならざるモノに触れてしまうも方も中には居る様です。
これは、私が小学5、6年生の頃に体験した話なのですが…。
幼少の頃から父方の祖母には『お参り小僧』と言われ、御朱印集めのお参りに着いて回ったもので、『八百万の神々』と云う神道の教えが身に染みて居り、何にでも手を合わせる子供でした。スーパーのガラポン(くじ引き)で当たりが出たら球を出す抽選機に『感謝』、壁に何かをぶつければ壁に『謝罪』、周囲に対する羞恥心も芽生え、この頃になると素早く卒なく熟して居た様に思います。
当時私は、偶然TVで見たアニメ映画『孔雀王』や『カルラ舞う!』に興味を惹かれた時期でもあり、これらは邪気を払う退魔道をモチーフにしたハードボイルドな宗教ファンタジーで、『孔雀王』に至っては、集英社の『週刊ヤングジャンプ』で連載され人気を集めた作品でもありました。
正月映画として『孔雀王』の実写映画が公開され、冬休み明けの学校に、映画館で購入した下敷きを友達が持って来て自慢して居ました。それには『九字護身法』という呪法の印が記されて居り、皆がその印に興味を持ち、こぞって覚えようとしました。「ミーハーだなぁ。」と冷めた目で見て居た各言う私も、暫く経つとその内の一人となって居たのですが…。
九字護身法とは、主に修験道において「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」の九文字の呪文と九種類の印によって除災戦勝などを祈る作法の事で、道教の六甲秘呪を源流に修験道に通じ、九つの印を結ぶ事で心や身体を守る呪法として、日本独自に発展したものなのだそうです。
子供のする事ですから、遊び感覚でその印を真似し、授業の合間や給食時間に「誰が一番早くやり終えるか?」手遊びの延長としてふざけ合って居ました。
それがただの遊びであると信じて疑わなかったのです。
後日、晴れた夜の事、布団に入り横になると、放射冷却のせいか、遠くで走る電車の音が寝入り端の耳に届いて来ます。
「タタントトン、タタントトン。」
目を閉じて耳を澄まして居ると、学校で友達とふざけ合って遊んだ「九字護身法」が頭をよぎりました。
何となく思い立ち、仰向けのまま布団の中で印を結びました。
既に手指が覚えて居り簡単に九つの印を結び終えます。
何度か繰り返した後、一息ついてそのまま布団に沈み込む様な感覚で、眠りに落ち始めた時です。
窓の直ぐ外、隣家の植え木の葉が擦れる音も、さっきまで聞こえて居た遠くの電車の走る音も一瞬にして止み、室内が異様に静まり返り、妙な違和感が広がったと感じるが先か、バチッと金縛りに捕らわれました。
掛け布団の上から太い丸太の様な物で2点、左上腕と右前腕の辺りを押さえ付けられ、突っ張った布団の生地が尚体の自由を奪うかの様に、息を吸う事もはばかられた矢先、突如として低い唸り声が耳に飛び込んできました。
聞こえ難い右耳の奥から。「ううう」と、まるで男性が苦しんで居る様な声が。
更に下の名前を呼ぶのです。今度は耳元ではなく、乳様突起のある耳の裏側から。
布団の中で硬直して居ると、名前を呼ばれた事に驚かされ、右耳の付け根辺りから肩口にかけて、毛穴が収縮しゾワゾワと生毛が起き上がる様な感覚に襲われました。
その声は繰り返し、離れたり近づいたり、まるで私の返事を待つかの様に唸り続けたのです。
足先が冷たくなり、手の平には冷や汗、膨らんだ冬布団から無防備に顔だけが恐怖に晒されて居る事に怯え、焦りや気味の悪さが一気に押し寄せて来て、頭の中はパニックです。
何かを見てしまいそうで目も開けられず、声の正体も、どうすれば止められるのかも分からず、布団の中でただその恐ろしい声に怯えながら、寝間着のズボンを汗ばんだ手でギュッと握って居ると、頭の中で小さく「シャン」と錫杖か神楽鈴の様な音が聞こえた気がした後、気を失うかの様に寝入ってしまいました。
次の日から『九字護身法』の印を結ぶことはありませんでしたが、その出来事以来、私は『不思議な力』に興味を持つ様になりました。
あの夜の出来事が、ただの偶然だったのか、それとも九字護身法によるものだったのかは分かりません。
ただ、一つだけ言える事は、ある呪法により日常とは違う世界に触れかけたと云う感覚、それが良い物なのか、悪い物なのかは、今でもはっきりしませんが…。
生まれ持った私の奇形の右耳ですが、私が産声を上げ、母が手足の指を勘定した際、右耳におまけが付いて居る事に気が付きました。
耳珠(じじゅ)辺りに米粒大の小さな出来物が在りました。産婦人科の先生曰く、「これは副耳(ふくじ)と言って、福耳(ふくみみ)の一種だから、切らないで大事にしなさい。」と言われたそうです。
言わずもがな『福耳(ふくみみ)』とは、一般的に大きな耳たぶを指し、縁起が良いとされるものです。
一方『副耳(ふくじ)』とは、先天性の疾患で、胎内での耳介形成過程で異常が生じることで発生するとされ、1000人に15人ほどの割合で生じ、特に症状の無い出来物の事です。
副耳を持って生まれた私は、小さい頃から「これは幸運のしるし!」「連れ去られても直ぐに判別が付く。」と家族に言われ続けて来ました。
特に母方の祖母はポジティブに捉えて居り、何か良いことがあると「福耳のおかげ。」と、まるで私の耳が勝手に幸運を引き寄せて居るかの様に語ってくれました。
勿論、「そんなこと本当にあるの?」と半信半疑でしたが、祖母が言うと不思議と信じたくなるもので、ある時、件の夜の話を祖母にしました。
すると、祖母は怖がるどころか、
「それは福耳の力やなかか?(笑)」
「福耳は幸運を呼ぶと言うばってん、良いか悪いかは人間が勝手に決める事。」と笑います。
私は祖母の言うことに混乱するばかり。
「福耳のせいで怪異が寄って来るって、どういうこと?」と思いつつも、祖母はニコッと笑って、
「心配せんで良か。気持ちの悪かとなら、塩袋の結界を張って寝たら良かよ。」
「こまんか頃に、部屋に男ん人が立ちよらすって、言いよった事が合ったやろ?」
「そん時にばあちゃんが作ってあげたの覚えとらんね?」
それからというもの、私は副耳に対して妙な思いを抱くようになりました。確かに幸運をもたらすと言われているけれど、たまに怪異も連れてくるらしいという、まさかの福耳。
幸運と怪異、どっちが本当なのでしょうか?
以上、『副耳も福耳』と云うお話でした。
ご静聴ありがとうございました。
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