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『沈黙は金、雄弁は銀』

 お耳汚しを失礼致します。
 「チャウチャウとちゃうちゃう。」
 関西人なら1度は言った事があるであろうダジャレです。
 御多分に漏れず、私も小学1年生頃、自慢気に祖母に語った事を覚えて居ます。
 「あぁっ。そげんこつなら、ばあちゃんも知っとるばい。」と教えてくれたのが、『でんでらりゅうば』でした。

 「でんでらりゅうば〜 でてくるばってん」
 「でんでられんけん でーてこんけん」
 「こんこられんけん こられられんけん」
 「こ〜んこん」

 これは長崎に伝わる童謡で、作者も作られた時期も不明、歌詞の意味も諸説あり、地域や世代によって替歌で広まって居たりする、九州では有名な手遊び歌なのだそうです。

 「狐の歌?」と祖母に聞くと、
 「ちゃうちゃう。(笑)」と笑顔で答えます。
 「知らんか?文明堂の宣伝でやっとったやろ?」
 「知らん。じいちゃん分かる?」と、このやり取りを傍で聞いて居た祖父に質問すると、
 「童謡たい。」「出らるっけん出られん。出られんけん出らん。て言いよらすとやろ?」と、祖父が説明するのですが、煙に巻かれた様に思い、
 「ちゃうちゃう。意味は?」と質問すると、
 「そいはどっちのチャウチャウか?(笑)」と、二人してからかいます。
 「ばあちゃん。何て意味?」改めて祖母に聞き返すと、次の様に説明してくれました。

 色々言われは在るのですが、江戸時代に難破した漁師が、ジョン万次郎の様に外国船(オランダ船)に助けられ、船乗りや通訳としてオランダ船に乗り込み、出島に入国したのではないか。
 日本人だから出島から長崎には入れるけども、既にオランダには家族が居て、長崎に入ってしまうと二度と港には戻れない。だから、出島からは出られないと云う歌なのだそうです。
 大人になって調べてみた処、遊女の手遊び歌と云う説など様々在る様ですが、要は『出るに出られない』何らかの理由で拘束された『籠の中の鳥』の様な状況を歌った内容である事が共通して居る様です。

 しかし当時小学1年生だった私では、ジョン万次郎と云う人は昔のタレントか歌手だと思って聞いて居ましたし、江戸時代のキーワードから想像できたのは、暴れん坊将軍(松平健さん)や長七郎江戸日記(里見浩太朗さん)、桃太郎侍(高橋英樹さん)に大江戸捜査網・遠山の金さん(杉良太郎さん)、その辺りが限界でした。

 私が祖母を質問攻めにするものですから、祖母にスイッチが入ってしまった様で記憶の蓋が少しずつ開き始めました。


 これは、私が小学1年生頃に母方の祖母から聞いた話なのですが…。

 私の祖母は佐賀県武雄市の出身で、女学校を卒業して直ぐ、長崎県佐世保市の『逓信省電信局』で電話交換手の職に就いて居たそうです。
 『逓信省電信局』とは、太平洋戦争中に通信網を管理していた省の事で、後にNTTの前身となる『日本電信電話公社』となります。
 そして電話交換手と云うのは、モールス信号を使って電報を打ったり受けたり、電話回線を手作業で繋ぎ、電話をかけて来た人と相手を繋いだり、代表電話を受けて担当者や部署に取次ぐ業務を行う人の事で、戦時中は『通信戦士』と呼ばれ、命懸けで電話回線を繋いで居たそうです。

 祖母曰く、当時の『電話交換手』と云う職業は、女性にとって花形の職業で、採用条件が厳しく、何ヵ月も訓練を積んで選ばれた女性のみが就けた職業なのだそうです。
 「空襲で焼夷弾が降って来ても、ブレスト(ヘッドホン式送受話器)ば外すなて言われとったとばい。ばあちゃんは『通信戦士』やったとよ。格好良かろうもん。」
 特撮物や戦隊物に夢中だった私は、『戦士』と云う音の響きだけでとても話しに引き込まれてしまいました。
 「そいでん仕事場は女ん人ばっかりで、休憩の時んだけは皆、洋裁やら誰が誰を好いとらすとか、そう云う話ばしとらしたね。」
 二十歳前後の女性と云うのは、今も昔も然程変わらないのかも知れません。

 時は1945年8月7日(火)、照りつける夕日に逆らいながら、路面電車を降りた祖母は長崎市駅の駅舎へ急いで居りました。
 8月6日の原爆投下の大惨事を知り、次の爆撃を懸念した曾祖父が実家に帰って来る様にと会社に電話を掛けて来たのだそうです。

 祖母は当時、佐世保支局の在る相生(あいおい)町で勤めて居りましたが、或る日、祖母を含めた数名が、佐世保支局から長崎支局へ手伝いとして出張を命ぜられたのだそうです。
 長崎支局は本庁舎である梅香崎(うめがさき)町から桜馬場(さくらばば)町と蛍茶屋(ほたるぢゃや)に分かれて疎開して居り、祖母は桜馬場近くの下宿先から通勤して居た様です。

 終戦間近の鉄道事情は、物資も無く空爆を懸念して、汽車の運行は軍関連の輸送に限られて居り、その日、祖母は実家まで帰る為の切符を買えなかったそうです。

 駅から電話で曾祖父にその旨を伝えると、曾祖父が手配し、翌8月8日夕方に下宿先まで迎えに来てくれたのだそうです。

 勿論そんな事情を仲間内に話す事は出来ず、後ろ髪を引かれる思いで日の暮れる街並みを車窓から眺めながら、今で言う長崎本線と大村線の分岐となる諫早(いさはや)駅で下車して、近くに宿を取り1泊したそうです。
 世情に対する不安は勿論ですが、重責を伴う職業に就いて居た事もあり、責任感の強い祖母は仕事の事や仲間の事など自責の念で頭の中が一杯だったのではと思います。

 防空テープの影に捕らわれた室内をぼんやり眺めて居ると、
 「どっちのモンペが似合うとう?」
 「どっちも同じ様なもんじゃろぅ。(笑)」昼食時に皆が笑います。
 「敏子さんはどげん人が好かと?」佐世保支局から出張組で一緒に来て居た職場の友人達との他愛無い会話が頭を過ります。
 「あんたは?」と祖母が切り返すと、
 友人は「ウチは白いセーラー服の似合う海兵さんが好か。」
 「ひもじか思いせんで良かもんねぇ。」と祖母が答えると、
 「あんたは本当に、色気より食い気やねぇ。(笑)」
 「ウチは花より団子。(笑)」 そうやって女子トークに花を咲かせて居たのを思い出しながら眠りに着きました。

 翌8月9日(木)早朝、諫早駅で汽車に乗り込みますが一向に出発しません。
 午前8時を回った頃には既にお日さんは高く、蒸した車内には多くの客が乗り合わせて居ます。大きな荷物を棚に押し込む初老の男性、むずがる赤子をあやすお母さん、切符を切りに来た車掌に状況を聞く国民服の男性。
 全開に開け放たれた窓からは、雑草のムワッとした匂いを孕んだ風が車内に流れ込みます。涼むには程遠く、皆は手ぬぐいで汗を拭いながら、嫌でも耳に押しつけられる蝉の声にうんざりし、逃げ場のない社内で暑さに項垂れて座って居りました。

 「ボッ!シュシュー。」
 どのくらい待ったのか、汽笛と共に蒸気を吐き出して諫早駅を出発しました。
 先程とは打って変わって、窓からは心無しか心地良い風が吹き込みます。周りの乗客も少しばかり安堵の表情を浮かべて居る様にも見えます。

 午前11時頃、汽車は長崎県と佐賀県の県境辺りまで来て居り、内海の海岸線に沿って走って居りました。通路側に座った祖母が、反対の窓から干潮時の干潟を眺めて居ると、突然閃光が車内を照らしました。一瞬体の動きが止まり一呼吸した後、まるで雷鳴が遅れて聞こえて来たかの如く轟音が轟き、続いて地鳴りと共に汽車が急停車したそうです。
 何事か?空襲か?と騒めく社内から人々が窓の外に見た物は、大きな大きなきのこ雲でした。

 「山ん向こうやね。この辺じゃなか。」と誰かが呟きます。
 暫く窓に人が群がってきのこ雲が立ち上るのを眺めて居ると、夕立時の様に空が黒ずんでポタポタと黒い雨が汽車を叩き始めました。
 「直ぐに窓ば閉めたばってん、瞬くあいなかに窓ガラスば真っ黒になっとったばい。」
 暫く経ち汽車が動き出して、昼過ぎに大町に帰り着いたそうです。

 翌8月10日(金)午前、情報統制が行われて居た時代ですが、曾祖父の情報網によるとどうも長崎に2発目の原爆が投下された様だと耳に入って来た様で、口に出さずとも敗戦の色濃い世情を鑑みて、直ぐに佐世保支局に戻るのは危険と判断し、祖母は2~3日自宅で過ごしたそうです。


 曾祖父の気転により祖母は助かったわけですが、実は曾祖父は武雄市の『大町町』『白石町』周辺を網羅する郵便局の局長でした。
 戦時中、この一帯には郵便局が無かった為、皆の為に盆暮れ正月関係無く、朝から晩まで走り回り資金や署名を集め、様々なお偉いさん方を説得し郵便局を設立したそうで、設立や運営に尽力した功績を称えられ、戦後、昭和天皇から『藍綬(らんじゅ)勲章』を授与されたそうです。

 祖母は若い頃からとても勤勉でしたが、曾祖父はそれに輪をかけて働き者だったそうで、戦時中の郵便局長と云うのは、地域社会において重要な役割を担う存在でした。
 郵便局は国民にとって通信や物流の拠点でもあった為、局長は地域の情報を管理し、政府との連絡役も果たしました。特に戦時中は、郵便局が徴兵通知や物資の配給券の配布、軍からの通信などの重要な業務を担って居た為、局長の責任は非常に重いものだった様です。

 また戦時中、国内の治安維持や軍事機密の保護、さらには国民の思想統制を行って居たのが憲兵で、郵便局は通信の拠点であり、軍事情報や国家機密が漏れない様に、郵便物の検閲が行われて居た為、郵便局長と憲兵との関係はとても重要でした。
 郵便局長は、憲兵からの指示に従い、郵便物の検閲に協力しなければならない立場にあった為、憲兵とは近しい関係である必要があった様です。

 終戦を迎えて何年か過ぎた頃、曾祖父がボソッと祖母に打ち明けたそうです。検閲前の情報に触れる事もあり、敗戦は目に見えて居た、居ても経ってもおれなんだと。
 新型爆弾は3発作られて居り、実験的に1発目が広島。残りの可能性は、空襲の被害が少なく家屋が密集して居て爆弾の効果を測定し易い都市や地形で、兵器工場や造船所が集中して居り軍事的価値が高い場所が、次のターゲットで在ると分かって居た様です。

 大人になって調べた処、『広島、京都、横浜、小倉など』の候補以外にも予備目標として長崎などが検討されて居たそうで、実際は、1発目をニューメキシコ州で実験し、2発目が広島のリトルボーイ、3発目が長崎のファットマンだった様です。


 土日を挟み8月13日(月)。祖母自身も煮え切らない思いが在ったのだと思います。長崎で分かれた同僚の安否も心配でしたし、仕事も途中で切り上げて帰って来て居りましたので、一度佐世保支局に行く事にしたそうです。

 佐世保支局へ着くと、長崎と連絡が付かず、様子を見に行った上司からは、「何も残って居なかった。民家の敷地には水道の蛇口だけが生えて居た。疎開して居た支局も全壊だった。」と聞かされ、出張組は被爆して行方知れずになって居たのだそうです。

 出張組を見送った残留組の中には、祖母や友人を知る同期が居たらしく、こう言われたそうです。
 「なしてあんただけが被ばくば免れたと?○○さんも○○さんも皆、死にんしゃったとに。なしてか?」
 「あんたみたいな田舎者がそもそも交換手に成れる訳なかとに、お父さんの伝手で就けただけっちゃろもん?」
 祖母は苦虫を嚙む思いで唯々黙って居たそうです。
 「皆おらんごとなった。ばってん、うちの枕元に毎晩見知った顔が立ちよらすとぞ。きっとあんたへん恨み言ば、言いに出て来とうとたい。」
 「もしかして、あんたはスパイじゃなかとか?」 祖母は否定も肯定もせず、唯々黙ってやり過ごしたそうです。
 『でんでらりゅうば、でんでらりゅうば』そう心の中で呟きながら…。

 上司からは「本土決戦も近い。」と言われ、佐世保支局では嵐の様に時間が過ぎた2日後の8月15日(水)。
 様々な感情が綯交ぜになりながら、この日職場で玉音放送を聞き、退職したそうです。

 「あんたもよう覚えとき。言い訳したら色んな人に迷惑が掛かる。いらん事は言わんで良か。『沈黙は金、雄弁は銀』て言うっちゃろ。」と、私に教えてくれました。


 私は初孫だった事もあり、何かにつけ祖母が良く面倒を見てくれて可愛がってもらいました。
 ともすれば祖母が育ての親の様な処も合った様に思います。
 そんな祖母には、「『三つ子の魂百まで』て言うけんよう聞きや。」とばあちゃん語録を聞かされたものです。

 例えば、『B-29が飛んで来たら』横に逃げて直ぐに防空壕に入りなさい。いつまでも追いかけられるから絶対に後ろには逃げない事。飛行機からは良く見えるから、機関銃でハチの巣にされる。

 また、『焼夷弾が降って来たら』油が撒かれるから火傷を負わない様に厚着をして防空頭巾を被る事。着弾予想地点に足を向けて俯せになり、爆音で鼓膜が潰れない様に親指で耳を塞ぎ、爆圧で目玉が飛び出さない様に四指で目を塞ぐ事。

 そして最後に、「『日々の生活で一番大切な事』は、憲兵さんには目を付けられんごとせなぞ。もし会う機会が在ったら良い顔をする事。」「ばあちゃんは憲兵さんには愛想良くしてたから、郵便局んとこの娘さんって、顔が利いとったと。」

 こうしてレクチャーを受けたのは私が7歳の時の事でした。

 ★以上、『沈黙は金、雄弁は銀』と云うお話でした。
 ★ご静聴ありがとうございました。



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