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仏・菩薩は拝むことは尊崇性を養うこと

 仏教徒は何故に仏を恭敬し、供養するのだろうか。
 それは尊崇性を養うことは仏から讃美される事柄であり、またその果報も勝れていることが釈尊によって説かれているのである。
『根本説一切有部律』の「薬事」の中に、ある施主が仏へ供養し、その功徳で呪願をしていただくよう伝えた時の次のような仏の言葉である、

信仰がある人、神々を供養する者は、
教主のおおせられた通りに実践し、かれは仏たちに讃美される。
賢明で心の注意深い人が住まいを設ける、その場所で
戒をそなえた人に食物をさしあげ、そののちに呪願をすべきである。
かれらは尊崇することによって尊崇され、また供養することによって供養されるであろう。
それから〔神々は自分の〕腹から生まれた息子を母が〔愛する〕ようにかれを愛する。
神々が愛する人は、幸福を見るであろう。
(『根本説一切有部律薬事』八尾 史〔訳注〕)

仏は「尊崇する人は尊崇され、供養する人は供養される」ようになるという。他者から尊ばれることを望む者は、先ず自身が尊崇性を養っていくことが必要であり、そうすることで結果的に己が尊ばれることになっていくのである。

浄土宗の傑僧・弁栄上人もこの尊崇性を養うことは特に大事であると云っている。

 宗教には尊崇性は特に大切である。この性が発達すると宇宙に最も尊きもののあることが解る。
 尊崇は霊性より出る感情であって、人により強弱あり、発達の速さも異なる。太陽の光は瓦に反射せぬけれども、研いた金剛にはよく反射する。如来の光明も人により感ずる程度が異なる。自分が偉いと思えば、尊崇性は発達し難い。自分は至らぬ者である、彼方に尊い方がいられると思い、それを尊べば尊崇性は次第に発達する。有り難いという感じも同様である。
 道真公は尊崇性の発達した方であった。人には尊崇性を用いた人と、用いない人とある。ダルマは「我れ何人ぞ、釈迦何人ぞ」といって、尊崇性を用いなかった。それで人からもおもちゃにされ、煙草入れのねつけや不倒翁[起き上がり小法師]にされ子供にまで弄ばれている。弘法大師や道真公は神仏を尊んだから、人からも拝まれる。自らへり下り他を尊ぶ故に己が尊
崇性現われ、人からも崇められる。
(『山崎弁栄 光明主義講話 大悲のことば』)

 仏・菩薩や諸天は元より他者を謙遜の心をもって敬うことは仏の教えであり、仏教徒であればその教えを蔑ろにしていいはずはないのである。
 仏教を学ぶにはやはり仏・菩薩の説かれる仏典や偉大な祖師方の釈文を拠り所にすることが重要であると強く思う次第である。

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