身心一如を改めて考えてみる
以前の記事で、仏教では身心一如即ち身と心は分かつことはできないということを追求してみたのであるが、改めて身心一如について考えてみたい。
その以前書いた記事では夢窓疎石上人の語録である『夢中問答集』を基軸にして、その語録に取り上げられたる南陽慧忠国師と大慧普覚和尚の言葉、特に慧忠国師の身心一如とそれに基づく夢窓疎石上人の説示から縁生(衆縁和合の生滅する身心)と法尒(円満具足の生滅しない身心)の考え方の二種あることを結論付けた。
つまり、
仏教
①縁生身・縁生心
②法尒身・法尒心
外道(仏教以外)
①縁生身
②法尒心
仏教では諸縁和合の身心と円満具足の身心を説き、外道(仏教以外)が説く身心観は、身は無常で心は常住であるという片手落ちであり不備なるものであるということが示されるのである。
しかしながら、慧忠国師の身心一如説が示されている典拠、『祖堂集』を拝読するとどうやら上記のような考え方ではないようなのである。
『祖堂集』における南陽慧忠国師の身心一如説
『祖堂集』では以下のように説かれる、
現代語訳は以下、
慧忠国師は『金剛経』の説示を基にして、「私の仏性は、身と心が一体で、身体のほかに何も残さぬ。だから、全く生滅しない。」と述べ、身心は不生不滅であるとしている。さらにこの問答では、当時流行していた南方の禅門(神会上人などか?)のあり方を、身は無常で心は常住であるという外道的考え方であるとして、批判的に据えておられる。
ここで着目すべきは慧忠国師は生滅変化する色身は考えておらず、法身のみを以て身体そのものであるというのである。
『維摩経』にも同じような説示がある、
サンスクリット語からの訳では、
これを拝読して、慧忠国師は自身を仏身(=仏性)そのものと考えて、如来の身体と同様に不生不滅の法身と観るが、冒頭にも述べた夢窓礎石上人の身心観とは少し相違があるのではないかと考えてみる。夢窓上人は身心観には縁生(えんしょう)と法尒(ほうに)があるとして、以下のように云っている、
さらには『円覚経』の一節を引いて、
私の理解が間違っていなければ、夢窓上人は衆縁和合にして生滅流転する身心が縁生であり、縁生の他に円満具足の法尒(ほうに)の身心があるという考え方のようである。生滅変化の身心と不生不滅の身心の二種である。
しかしこうも考えられる、縁生の身心は『円覚経』の幻身説から縁生の身心を窺えば、それは始めから存在しない身心である。したがって慧忠国師の云われるように、法尒の身心のみを身心とするとも言えるのである。そうであれば、夢窓上人は慧忠国師と同じ考え方ある。
慧忠国師の身心観
慧忠国師の身心観は色身を見ること自体を邪見としており、自身は仏性そのもの、如来の存在そのものとして身心を見ているのである。そうだとすれば必然的に『金剛経』に説かれるように、如来は色身として観じることは不可であり、必ず不生不滅の法身と観なければならないとするのである。