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声聞と菩薩の階位~『阿闍世王経』を中心に~

声聞と菩薩

 仏教には声聞、縁覚、菩薩という三乗の思想がある。声聞は舎利弗、目連を筆頭とする十大弟子などの仏弟子を指し、縁覚は別名を独覚などと云って十二因縁を他者の力を借りずに自力で覚る者を、菩薩は大乗への菩提心を発した衆生を指し、いわゆる観音、勢至菩、文殊、普賢、弥勒などの大菩薩を上首とする。
 この三乗の中で、声聞と菩薩が仏教教団においてどのような関係性があるのか、『阿闍世王経』に説かれるエピソードから考えてみたい。

 『阿闍世王経』では、仏教で最大級の大罪とされる五逆罪を犯した阿闍世王が、文殊菩薩の徹底した空観思想に依って救済されて悟りを得るまでが説かれる。
 経典の中盤で阿闍世王が説法を聞くために文殊菩薩を上首とする菩薩達を自身の城に招待する。文殊菩薩が阿闍世王の城へ赴く途中、摩訶迦葉尊者が文殊菩薩を訪ね、事情を聞いて尊者も同行する一幕があるが、ここで声聞と菩薩の関係性について文殊と摩訶迦葉の問答が展開される。

『阿闍世王経』の文殊菩薩と摩訶迦葉尊者

『阿闍世王経』を定方晟博士が現代語訳した『阿闍世のさとり 仏と文殊の空のおしえ』があるので引用する。

 文殊師利は座よりたちあがって、衣服を身につけた。そして摩訶迦葉にいった。「どうぞ、先にお進みくだされ。わたしは後を行きますから。なぜなら、あなたのほうが年長であり、また仏はあなたをわたしよりさきに沙門にしたのですから。だから、当然あなたが先に行くべきです。」
摩訶迦葉がいった。「仏法に前後はありません。年齢などは関係がなく、年下のひとでも尊い場合があります。」
 文殊師利がいった。「何をもって尊いと判断されるのですかな。」
 摩訶迦葉がいった。「知恵のあることをもって尊いとするのです。学問を積んだことをもって尊いとするのです。〔善〕行をおこなうことをもって尊いとするのです。人間のすべての行いを知ることをもって尊いとするのです。」 摩訶迦葉は続けた。「文殊師利殿は知恵をそなえ、学問を完成しております。あなたがおこなった行為、および、人間のすべての行いを知るあなたの能力、これをもってあなたのほうが尊いと判断されるのです。」
 摩訶迦葉がつづけた。「また、あなたは相当の年齢に達していらっしゃいます。お偉くもあります。だから、あなたが先に行くべきです。わたしは後から行くほうを望みます。譬喩を述べさせていただきますので、お聞きください。ライオンの子は体力や勢力では他のおとなの動物におよびません。しかし、小さくても、すでに偉大なものの香り|をそなえております。鳥や獣でその香りをかいで恐怖しないものはおりません。たとえば、六牙をもつ六十歳の大象がいたとします。ひとが革で縄をつくってその象を縛ったとします。ライオンの子が革の縄の近くにやってくると、大象はかれの匂いを嗅ぎとり、〔恐怖のあまり馬鹿力をだして革の縄を切って〕山のなかに逃げ込みます。菩薩は発意したばかりのときはまだ小さな勢力しかもっていませんが、すでに声聞や辟支仏の及ぶところではありません。魔物たちも〔菩薩のまえでは]〕みな恐怖して萎縮します。ライオンの子は親ライオンが『うおー』と叫んで(獅子吼して) 行動をおこすのを見ても、ぜんぜん恐がりません。震えません。かれは〔親に倣おうとして〕むしろ喜びを増加させるのです。これと同じように、菩薩は仏の行動を見ても、恐れることを知らず、
震えることを知りません。かれはむしろ喜びを増加させます。わたし自身もそのようにあるべきだと、いまあえて考えております。」
 舎利弗がいった。「尊い者とはどのようなひとか。声聞でもない、辟支仏でもない、菩薩のこころをおこす者である。なぜなら、三者の求めるものは、すべて菩薩のこころからおこるものだからである。」
 摩訶迦葉がいった。「だから、文殊師利〔菩薩〕が尊いのです。あなたが前へ進むべきです。わたしたちは、後からついて行きます。」
(『阿闍世のさとり 仏と文殊の空のおしえ』定方晟〔訳〕110~113頁)

 上記引用の部分では、布施を受けるうえで菩薩の文殊師利と声聞の摩訶迦葉のどちらが上首となるかで話し合いが行われている。仏教教団では先に入った者が先輩であり、後からサンガに入った者は後輩となり、先輩を立てて敬わなくてはならない。

仏教教団の席次規則

 仏教の教団で席次を定める方法はただ一つしかありませんでした。具足戒を受けた時の先後だけによって上下が定められました。僧階とか職務とか才能などによる身分の区別というものがまったくなく、すべてのビクは同じ服装をまとい、同じように生活すべきものとされていました。そこで席次が問題になる場合には、具足戒を先に受けたものが上位につくことになります。もし日まで同じであれば時間に先後によって区別されます。
(『新釈尊伝』渡辺照宏 ちくま学芸文庫 281頁)

 ここで興味深いことに気づく。仏教教団の席次規則に従えば、声聞であり戒律に厳しい摩訶迦葉尊者のほうが沙門になった順番を尊重するであろうし、反対に文殊菩薩のほうが大乗の思想によって菩提心、智慧や慈悲を重視して沙門になった順番などに執着しない柔軟な考え方を主張するはずである。それが文殊菩薩は席次規則にしたがって先輩である摩訶迦葉尊者を立てようとし、摩訶迦葉尊者は反対に智慧や善行がすぐれたほうが先に立つべきであるとして文殊菩薩が上首になるように勧めるのである。
 最終的には文殊菩薩が先に立って阿闍世王の元へ向かうのであるが、声聞と菩薩が互いに相手を尊重していることが重要なのである。『阿闍世王経』では、声聞への多少の批判はあるが、『維摩経』に見られるような徹底した批判はあまりなく、阿闍世王が文殊菩薩によって悟りを得る場面でも摩訶迦葉尊者は一役買っている。
 しかしながら『阿闍世王経』はあくまで大乗経典であり菩薩であることに価値を置いていることはいうまでもない。
 大乗の思想がそれまでの仏教の枠を飛び越えて特異な考え方を展開していることは大乗の四諦説大乗の三法印でも述べたが、伝統的な慣習や因襲を打破して時代に合わせて革新していこういう考え方が根底にあるようである。

山崎弁栄上人の著作に見る声聞と菩薩の関係

 浄土宗の傑僧、山崎弁栄上人の『難思光・無称光・超日月光』に、声聞と菩薩のエピソードが述べられておりその関係性を見て取ることができる。

 仏教に菩提心を発す者は最も大なりと為す。仮令現在は小にあるも其意志に於て宇宙と共に大なるなり。昔印度に羅漢果を得たる聖者あり。一の小沙弥を侍者として道に就く。自ら前に行き沙弥を随行せしむ。小沙弥自ら念願す願くは我大菩提心を発し成仏せんと。聖者他心智を以て沙弥の意念を知見し、おもへらく、此の沙弥現に少なりと雖も其の志願大なり。我沙弥に侍し随行せんと。
 沙弥が携帯する物を取て沙弥を前立たして自ら随行す。沙弥又念願す、大菩提心を発して一切を度す事甚だ苦難なり、自ら堪へざる処なり。如かじ、羅漢の果を得んにはと。時に聖者又沙弥の志念を見て自ら前に立ち沙弥を随はしむこと例の如し。
 大菩提心を発す者現在は小なりといへども将来偉人と成らん。人は其理想に又心願に遠大なるは現在小なりと雖も実に畏敬するに値あり。志願の最大なるもの菩提心なり。
(『難思光・無称光・超日月光』山崎弁栄 235~236頁)

 ※羅漢果……声聞における悟りの最高位
  沙弥………見習い僧

 阿羅漢の聖者といえども、菩提心を発して菩薩の仲間入りした初学の者に対しては尊敬の念を抱いて尊重するのである。これは先の『阿闍世王経』での摩訶迦葉尊者の発言に類似しており、年長の声聞が年少の菩薩の侍者となることもあるという一例である。当然のことではあるが、菩提心を捨てると年長の声聞が年少の者に対し侍者となることはあり得なくなる。
 この引用文の中でもうひとつ着目すべきは沙弥がせっかく大きな志を抱いて邁進する気持ちがあったにもかかわらず、成就させることへの不安が起こり志願を放棄してしまったことである。おそらく、年少初学の僧であるが故に、今生において菩薩の志願を成就させようと焦ってしまったであろうことは想像に難くないが、菩薩の誓願は無限の時間において成就させるものであり、今生や来世程度の時間を以て成就させることはできないのである。
 菩薩としての願いは来来世やさらにその先へも保ち続けるべき遠大さがあるが、ここに不安を抱くと早く苦悩から脱したいと思い、声聞の悟りへ向かって般涅槃を希求してしまう。
 それ故に菩薩としての大菩提心を維持し続けることは計り知れず、声聞の窺い知るところではないから初学の菩薩に対しても尊敬の念を抱くのである。
 チベット仏教の学僧ツォンカパ大師の『菩提道次第小論』の言葉である、 

〔菩薩〕行を学んでいなくても、その心が有るなら、菩薩だと説かれています。
(『悟りへの階梯 チベット仏教の原典・ツォンカパ〔菩提道次第小論〕』
ツルティム・ケサン、藤仲孝司 訳著、星雲社 160頁)

大乗仏教は特異

 声聞と菩薩の関係を簡単に見てきたが、本来仏教としては席次規則などに厳しいのであるが、大乗仏教はそれまでの因襲的な考え方を破ろうとする意志が窺える。例えば『維摩経』には持世菩薩なる沙門が登場するが、沙門であるからには遊行あるいは精舎を主とするはずが、経には自分の家にいるというような矛盾する記述もあり、沙門は環境に非ずして自身の精神にこそありとする革新的思想が大乗仏教にはある。
 極めて興味深いことであり、今後も大乗仏教の特異性を見ていきたい。
 

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