仏教の根本的理念に「三法印」がある。
それは①諸行無常②諸法無我③涅槃寂静の三つである。
各項目の意味は、
上記が仏教の思想では不可欠とされる「三法印」であるが、天台大師智顗は大乗仏教においては必ずしも「三法印」は必要ではないと云う。
天台大師が大乗仏教の「法印」をどのように考えておられたかというと、『法華玄義』において大乗仏教は「諸法実相」の一印だけであるとしている。
※これについては岩波文庫の『法華経』の訳注を施した坂本幸男博士が、
と言及しており、さらには上記の文について袴谷憲昭先生が「博士の素養からみて、この解釈には、恐らく次のような智顗の註釈が反映されているであろう」(「〈法印〉覚え書]」『駒澤大學佛教學部研究紀要』第37号、駒澤大学 62頁)と云って、その部分に相当する『法華玄義』の原文を上げておられる。
その原文に当たる『法華玄義』の書き下しが『国訳大蔵経 昭和新纂宗典部 第11巻』に上げてられているのでそちらを見てみると、
と説かれている。
「大乗は生死即ち涅槃、涅槃即ち生死にして不二不異なり。」とするのが大乗仏教の特徴であると大きく謳っている。
これは前記事「大乗の四諦」で述べた「無作の四諦」に一致している。
その「実相印」の根拠として、「浄名に曰はく」と云って、つまり『維摩経』を典拠にして述べておられる。
その部分の現代語訳(「無作の四諦」のところでも取り上げた箇所)を上げると、
という文である。
大乗仏教は「四諦」に関しても特異な考え方であったが、「法印」についても同じで、「諸行無常」も「諸法無我」も、煩悩を滅して「涅槃」を強調することも余計なことであると云って、かなり特異な主張があることが見てとれる。