見出し画像

大乗仏教の法印は諸法実相印のみ~天台大師の三法印不要説~

仏教の根本的理念に「三法印」がある。
それは①諸行無常②諸法無我③涅槃寂静の三つである。

各項目の意味は、

①諸行無常
この世界におけるあらゆる存在・現象は原因・条件に依って生滅変化し永遠不滅ではないという意味である。
②諸法無我
有為法と無為法を併せたすべての法には、永遠不滅で実体的な我(アートマン)はないという意味である。
③涅槃寂静
煩悩が滅尽し、静かで安楽な境地を意味する。涅槃については、「涅槃とは一切の繋縛からの解脱である」、或いは「貪欲の滅尽、瞋恚の滅尽、愚癡の滅尽、これが涅槃であると言われる」と説かれる。
(『仏教学概論』仏教学概論編纂会〔編著〕 佛教大学 47~48頁参照)

上記が仏教の思想では不可欠とされる「三法印」であるが、天台大師智顗は大乗仏教においては必ずしも「三法印」は必要ではないと云う。
天台大師が大乗仏教の「法印」をどのように考えておられたかというと、『法華玄義』において大乗仏教は「諸法実相」の一印だけであるとしている。
※これについては岩波文庫の『法華経』の訳注を施した坂本幸男博士が、

「小乗教では、諸行無常・諸法無我・涅槃寂静の三法印があれば、仏説にして魔の説に非ずと説き、大乗では諸法実相の印(しるし)のみあれば、仏説にして魔の説に非ずという。」(『法華経(上)』坂本幸男・岩本裕[訳注]ワイド版岩波文庫 340頁)

と言及しており、さらには上記の文について袴谷憲昭先生が「博士の素養からみて、この解釈には、恐らく次のような智顗の註釈が反映されているであろう」(「〈法印〉覚え書]」『駒澤大學佛教學部研究紀要』第37号、駒澤大学 62頁)と云って、その部分に相当する『法華玄義』の原文を上げておられる。

その原文に当たる『法華玄義』の書き下しが『国訳大蔵経 昭和新纂宗典部 第11巻』に上げてられているのでそちらを見てみると、

釈論に云はく、諸の小乗経は若し無常と、無我と、涅槃との三印有って之を印すれば、即ち是れ佛説にして、之を修すれば道を得。三の法印無きは即ち是れ魔説なり。大乗経は但一の法印有り、諸法実相を謂う。了義経と名け、能く大道を得。若し実相印無くんば是れ魔の所説なり。故に身子の云はく、世尊は実道を説き、波旬には此事無しと。何が故ぞ小は三、大は一なる。小乗には生死と涅槃と異なりと明す。生死は無常を以て初印と為し、無我を以て後印と為し、二印印して生死を説き、涅槃は但一の寂滅印を用ふ。是故に三を須ふるなり。大乗は生死即ち涅槃、涅槃即ち生死にして不二不異なり。浄名に曰はく、一切衆生は常に寂滅の相なり、即ち大涅槃なりと。又云はく、本より自ら不生にして、今即ち滅無しと。本不生とは即ち無常無我の相に非ず、今則ち無滅とは則ち小の寂滅の相に非ず、唯是れ一実相なり。実相の故に常寂滅相と言ふ。即ち大涅槃は、但一印を用ふるなり。此大小の印は、半満の経を印す。外道も雑(乱)すること能はず、天魔も破すること能はず。世の文符の印を得て信ずべきが如し。当に知るべし。諸経畢定して実相の印を得れば、乃ち名づけて了義大義と為すことを得べし。(『国訳大蔵経 昭和新纂宗典部 第11巻』415~416頁)

と説かれている。
「大乗は生死即ち涅槃、涅槃即ち生死にして不二不異なり。」とするのが大乗仏教の特徴であると大きく謳っている。
これは前記事「大乗の四諦」で述べた「無作の四諦」に一致している。
その「実相印」の根拠として、「浄名に曰はく」と云って、つまり『維摩経』を典拠にして述べておられる。

その部分の現代語訳(「無作の四諦」のところでも取り上げた箇所)を上げると、

観じ来れば一切の生類は悉く真如、一切万象も皆真如、道を求むるすべての聖賢も真如、汝弥勒に至るまで亦真如だ。すでに真如は絶対平等の実在であるから、もし汝、弥勒が、仏に成ると云うならば、一切の生類も亦仏になるのだ。又一切の生類は、皆正覚のすがたであるから、もし汝が仏の正覚を得ると云うならば、一切の生類も亦正覚を得るのだ。畢竟するに諸仏は、一切生類そのままの絶対寂静の真理となって、永恒に滅することが無いものだから、もし汝が、真如そのものとなることが出来るならば、一切の生類も亦真如となることが出来るのだ。(『維摩経 解深密経』岩野眞雄〔訳〕仏教経典叢書刊行会 67頁)

という文である。

大乗仏教は「四諦」に関しても特異な考え方であったが、「法印」についても同じで、「諸行無常」も「諸法無我」も、煩悩を滅して「涅槃」を強調することも余計なことであると云って、かなり特異な主張があることが見てとれる。


 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?