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物を大切にする精神

 日本人には古くから物を大切にする心があるのだが、その精神の根本にはどのような思想があるのかということがこれまでよくわからなかった。そこで先人の仏教者の方々の言葉なりを紐解くとそこには物を大切にする精神の由縁の一端を垣間見ることができる。
 他の国からすれば日本人が物を大切にする精神を理解できないかもしれないが、何百年と日本人の心に息づいている考え方がある。しかしながら、近年の日本人はそうとも言えなくなってきているので何とも言えないが。

 先ずは明治時代の浄土宗僧侶・山崎弁栄上人の逸話を見てみたい。

ある日上人と吉田師と由井ヶ浜辺の波打ちぎわを徘徊中、吉田師が足先に邪魔になる竹切れを片足あげて蹴散らすと、上人「すべて形あるものは皆仏性を備えています。荒々しく扱わない方がいいでしょうね」

『日本の光―弁栄上人伝―』田中木叉〔著〕光明修養会 昭和44年第3版 220頁

 上人というのは弁栄上人のことで、吉田師というのは当時弁栄上人に随行されていた僧侶の方。
 ここで、興味深いのは吉田師が、竹切れなどは単なる物であり、通常の考え方からすれば無情の存在であるから、ぞんざいに扱ったのであろうが、弁栄上人は全ての存在にも仏性が備わっているからその態度はよろしくないことを指摘している。
 仏性というのは有情の存在に備わっていると考えるのが一般的仏教の考え方であるかと思う。しかし、弁栄上人は無情とも考えられる竹の棒切れにも仏性が備わっているのだという。日本人は昔から物にも魂が宿るというようなアニミズム的な思想はあるが、仏教的に考えれば上記のような無情の存在には仏性はないとするのであるから、仏教者である弁栄上人の考え方はアニミズム的なものとは違うであろう。

 そこで取り上げてみたいのは、曹洞宗宗祖の道元禅師の考え方である。『正法眼蔵』中の「無情説法」に弁栄上人の指摘のヒントになるものが説かれている。
 道元禅師云わく、

 無情説法とは、人の音声や人がする説法のようであるのに決まっていると考えて、人界の音声のようなものとして無情界の音声を準えるのは仏祖が用いる言葉ではない。無情説法はかならずしも声によるものではない、たとえば、人の説法も声のみによるのではないようなものである。ここで、有情とは何か、無情とは何か、自分の主観と客観のはたらきに問いかけ、自分は有情の存在なのか無情の存在なのかと考えてみよ。
 このようであるから、無情説法の姿はどのようなものであるかを審らかに心に学ぶべきである。愚かな者が思うように、樹々が枝を鳴らし、花々や木の葉が開いては落ちる姿を無情説法だと考えるのは、仏法を学ぶものではない。もし無情説法がそのようなものであるなら、誰がそれを知らないものがあろう、誰か無情説法を聞かないものがあろうか。このような自然界の声は誰もが知るところであり聞くところである。しばらく省察を廻らしてみよ、無情界において草木樹林は存在なのか非存在なのか、無情界と有情界とは別の世界であって全世界は有情と無情が混在して現成しているのかどうかと。
 このようであるのに、草木や瓦礫などをもって無情と考えるのは全宇宙を遍く考察してはいないのだ。無情とは草木瓦礫などの存在を云うのだと考えるのは、全宇宙を満たしきった思想ではない。たとえ現に人間が見ている草木などをもって無情の存在に準えてみても、草木などは本当に無情なのかどうかは人間のはかり知るところではない。何故ならば、天上界と人間界の樹林とは、遥かに異なっているはずだ、国の中央に生えている樹と辺地に生えている樹とでさえ同じではない。海や山間に生息する草木もみな同じではない。ましてや無限の宇宙には、空に生息する樹木もあるだろう、雲のなかに生息する樹木もあるだろう。動をその性質として万物を生長しめる風、煖をその性質として万物を熟しめる火などによって生長する数知れぬ草木樹林のなかには、有情なのだと考えねばならないものであり、無情とは認められないものがある。草木であって人畜のようなものがあって、それらは有情と無情とに明確に分けられないのだ。いわんや仙界の樹や石、花々やその果実、湯や水など、人にとって疑いようもなくそう見えるものでも、それらが実はどのようなものなのかを説明することはできないだろう。わずかにシナ一国だけの草木を見、日本一国の草木の姿形に慣れて、無限の宇宙も同じだろうと当て推量をしてはならないのだ。

『正法眼蔵』石井恭二〔訳〕河出文庫 193~194頁

 道元禅師の考え方はかなり興味深い。娑婆に生きる衆生は、草木瓦礫などの存在を無情であると決めつけているが、それらが無情なる存在かどうかは人間レベルでは容易に量ることはできないというのである。
 我々が日頃生活している範疇での判断など大宇宙のほんの一部における観察であって、全く当てにならないとしている。仏の観察力と凡夫の観察力では観るべき範囲に大きく差がある故に、本当のところでの有情無情を知ることができるのは仏だけである。
 道元禅師の言葉から、前述の弁栄上人の言葉も領解できる。つまり、竹切れ一つであっても我々にはそれが有情か無情かの的確な判断というのはできないことであり、もしかしたらその棒切れが有情であり、仏性が備わっているかもしれない。そうであるならば、棒切れを蔑ろにすることは仏性を蔑ろにすることになり、結果的に仏を蔑ろにすることに繋がりその人が報いを受けなければならなくなる。そのならないように、弁栄上人は、「荒々しく扱わない方がいいでしょうね」とおっしゃったのであろう。

 鎌倉時代の華厳宗・明恵上人も苅藻島という島に対して、手紙を書いて送るなど通常の考え方からすれば狂気の沙汰とも言える行動をしているが、明恵上人云わく、

実相とは宇宙の法理そのものであり、差別の無い理、平等の実体が生の世界というのと何らの相違はありません。それ故に木や石と同じように感情を持たないからといって一の生物と区別して考えてはなりません。」

『明恵上人伝記』平泉洸〔訳注〕講談社学術文庫68頁

 上記の明恵上人の言葉からも道元禅師や弁栄上人の考え方と通じて理解できるのである。
 道元禅師や明恵上人は800年も前の鎌倉時代の方であり、その偉大なる道元禅師の人格から影響を受けた祖先達から脈々と現代までその考え方が身に沁みているからこそ、今でも物を大切にする精神が日本人には残っているだと考えたい。
 とかく人間は自分勝手な判断でもって大宇宙の事柄を解った気になっているが、人間の知恵(勿論、人間の知恵や知識は素晴らしいのだが)では限界があるということを日頃から念頭に置いておきたいものである。これは私自身に言い聞かせるための、道元禅師と弁栄上人からの教示であると受け止めて、この文章を終わりにしたい。

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