身心一如私見~仏教では身と心は切り離せない~
『夢中問答集』に説かれる身心一如
夢窓礎石上人の『夢中問答集』に次のような一節がある、現代語訳で見ると、
ここで云われていることは、身体と心は別々の存在でたとえ身体が朽ちても心は朽ちずに不変であるという考え方は仏教以外の思想であり、仏教特に大乗仏教は心が不変であるならば身体も不変、身体が朽ちるというならば心の朽ちるというように考えなければいけないということである。
上記引用文の最後にある『大日経疏』の引用はどうやら取意のようである。比較してみよう、『夢中問答集』の書き下し文は、
『大日経疏』では、
現代語訳は、
南陽慧忠上人と大慧普覚上人の身心一如
夢窓上人は続けて、先徳の上人方の逸話を上げて身心一如を説く、
南陽慧忠上人は「身心一如」としてそれ以上の詳細は述べておられないが、おそらく身体が滅びれば心も滅びるし、身体が滅びないのであれば心も滅びないということであろう。
また大慧普覚上人の「この死骸その物が、即その人だ。心は身体、身体は心だ」という説示をどう領解すればよいのか。
身心一如に対する私的考察
~中島観琇上人の報身説を手がかりに~
ここで考えてみるに、上記の慧忠上人及び大慧上人の説から、衆生が死を迎えて身体が滅び、心も同様に滅びて何も亡くなって無に帰するように思えるが、そうであろうか。おそらく、この考え方は間違いであろうと考えられる。
前述の夢窓上人は『大日経疏』を引いて、衆生の身心は実相であり、如来の平等なる智身であると云っている。つまり、我心として絶えず変化して働く慮知分別と無常であり衆縁和合に過ぎない生身のからだは身心一如であるからして、衆生が死を迎えれば共に滅するのみ。
しかしながら、衆生は如来蔵・仏性なる清浄心を具有し、さらには各自に具わる仏性の開眼によって組織された応分の酬因感果の身体たる報身(※仏のように清浄無漏の真報身ではなくそれまで業や縁に依って得た段階的報身)を持っているはずである。
「応分の酬因感果身」という名は私が独自に命名している語ではあるが、考え方の根拠自体は既にある。
浄土宗の中島観琇上人は各自に具えたる報身があるという、
※仏陀は完全なる報身、即ち真報身であり、菩薩以下の衆生は果報としての報身を保持しているということである。
仏性(=如来蔵)と応分の酬因感果身(=報身)は元来真如法身(=心真如)を体としているもので、無衰無変であり朽ちて滅びることはないのであって、身心一如として常住である。
言い換えれば、迷妄なる世界を主とすれば、慮知分別心と生身(肉体)は身心一如として、死を迎えれば共に滅するが、真如界(いわゆる仏の目線)を主とすれば、仏性なる清浄心と応分の酬因感果の身体は身心一如としてもとより常住であるから、共に滅することはない。
したがって身心一如説は穢土(我執なる迷界)を側面とするものと浄土(真如なる仏界)を側面とするものを考えなければならないのである。
これによって、身心は共に滅するとも言えるし、滅しないとも言える、またどちらでもないとも言えるし、どちらでもないのでもないとも言えるのである。
これを夢窓上人は縁生(えんしょう)と法尒(ほうに)と云っている、
そして『円覚経』の一節を引いて云う、
つまり以下のような二つの考え方が導かれる
①生滅変化する縁生の身心→生身(肉体)&心(慮知分別)
②常住不滅の法尒の身心→各自が具えている応分の酬因感果の身体(報身)&清浄心(仏性・如来蔵)
したがって、身が滅するという時は必ず心も滅するのであるし、身が滅しないならば心も滅しないのである。
南陽慧忠上人が、「身体は滅びるが、心は変わらない」と答えた僧に対して、「それこそ、仏教外の神我(霊妙な我)の考えだ」と云ったこと、並びに大慧普覚上人が「この死骸その物が、即その人だ。心は身体、身体は心だ」と云ったことの疑問が解かってくるようである。仏教においても『楞伽経』や『涅槃経』などで「真我」や「大我」が説かれるが、仏教以外で説かれる「神我」とは違うということである。
仏教以外(外道)では生滅する縁生の肉体と生滅しない法尒の心という対応しない身心の二種を説くのみで矛盾があるが、仏教では生滅の身心と不滅の身心の二種を説くのである。
仏教と外道の身心観の違い
仏教と外道の違いを窺うと次のようになるのであろうか、
仏教
①縁生身・縁生心
②法尒身・法尒心
外道(仏教以外)
①縁生身
②法尒心
仏教では諸縁和合の身心と円満具足の身心を説き、外道(仏教以外)が説く身心観は片手落ちであり不備なるものであるということが考えられるのである。まだまだ研究の余地があるが現段階での私の理解ではこれ以上掘り下げることができないのでここまでとする。
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