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身心一如私見~仏教では身と心は切り離せない~

『夢中問答集』に説かれる身心一如

 夢窓礎石上人の『夢中問答集』に次のような一節がある、現代語訳で見ると、

 凡夫が心と思っているものは、色や形は見えないけれども、瞬間に生滅して、少しの間もじっとしていないこと、水が流れ注ぎ、灯の焔が燃え続いているがごとくである。色や身体と同じように絶えず変化する。それなのに、身体は生滅(変化)するが、心は常住(不変)だと思っているのは、仏教外(外道)の考え方である。心を常住だということは、凡・聖は同体で、心・身一体なる真如実相を示すのである。それ故に、悟った人の考え方について言えば、単に心のみが常住(不変)であるばかりでなく、身体もまた常住である。それなのに、身体は生滅(変化)し、心は常住(不変)だというのは、大乗の説き方ではない。「大日経疏」には、一切衆生の身・心は、実相であって、本来、此盧遮那(仏)の一切平等の智身であると言っている。

『夢中問答集』川瀬一馬〔訳註〕講談社学術文庫 418頁

 ここで云われていることは、身体と心は別々の存在でたとえ身体が朽ちても心は朽ちずに不変であるという考え方は仏教以外の思想であり、仏教特に大乗仏教は心が不変であるならば身体も不変、身体が朽ちるというならば心の朽ちるというように考えなければいけないということである。
 上記引用文の最後にある『大日経疏』の引用はどうやら取意のようである。比較してみよう、『夢中問答集』の書き下し文は、

大日経疏に云はく、一切衆生の色心、実相にして、本より此盧遮那の平等智身なりと云云

『夢中問答集』川瀬一馬〔訳註〕講談社学術文庫 185頁

『大日経疏』では、

 すなわち身・口・意の秘密加持を以て、所入の門となす。いわく身平等の密印、語平等の真言、心平等の妙観を以て、方便とするが故に、加持受用身を逮見す。かくの如くの加持受用身は、すなわちこれ毘廬遮那の遍一切の身なり。遍一切の身とは、すなわちこれ行者の平等の智身なり。

「大日経疏」『密教経典』宮坂宥勝〔訳註〕218頁

現代語訳は、

 つまり平等のはたらきをもつ身体・言葉・意も秘密の不可思議な力を加えることによって、そこに入るところの門戸とする。つまり身体の平等のはたらきを示す秘密の印契、言葉の平等のはたらきを示す真言、心の平等のはたらきを示す妙なる観想をもって、手だてとするから、不可思議な力のはたらきをもつ受用身を見ることができる。このような不可思議な力のはたらきをもつ受用身は、つまりこれは毘廬遮那仏のすべてにゆきわたっている身体である。すべてにゆきわたっている身体とは、いいかえると、これは実践者の平等のはたらきをする智身のことである。

「大日経疏」『密教経典』宮坂宥勝〔訳註〕219頁

南陽慧忠上人と大慧普覚上人の身心一如

 夢窓上人は続けて、先徳の上人方の逸話を上げて身心一如を説く、

 昔、唐土、南陽の慧忠国師が、ある僧に「お前はどこから来た」と問うた。僧は「南方から来た」と答えた。そこで国師が「南方の宗師(善知識)は何とお前に示したか」と聞くと、僧は「身体は滅びるが、心は変わらない」と答えた。国師は、「それこそ、仏教外の神我(霊妙な我)の考えだ」と言った。これに対し、僧が「和尚(あなた)ならどう示しますか」と問うたところ、国師は「私はとうから身心一如だ」と答えたという。
 昔、馮済川という人があった。壁の上に死骸を絵に描いてあるのを見て、これを題にして一つの偈を作った。「屍はこのうちにあるが、その人はどこにいるのか。心(一霊)と身体(皮袋)とは一緒にいないと判った」と。この偈の意は、一霊とは心をさし、皮袋とは身体をたとえている。この人はまだ外道の神我の考え方を抜け出していない。故に、大慧禅師はこれを承認されず、別に一つの偈を作られた。「この死骸その物が、即その人だ。心は身体、身体は心だ」と。済川の偈はその意がわかりやすい。大慧の頌をば、どう心得たらよいか。身・心一如なる説き方は、大乗の広く通ずる筋道であるから、その口先で言っていることを受け取れば、大慧禅師の意にそむくことはないであろう。その心中のおもんぱかりを論ずれば、済川の考えを出ない人も多いであろう。

『夢中問答集』川瀬一馬〔訳註〕講談社学術文庫 418~419頁

 南陽慧忠上人は「身心一如」としてそれ以上の詳細は述べておられないが、おそらく身体が滅びれば心も滅びるし、身体が滅びないのであれば心も滅びないということであろう。
 また大慧普覚上人の「この死骸その物が、即その人だ。心は身体、身体は心だ」という説示をどう領解すればよいのか。

身心一如に対する私的考察
~中島観琇上人の報身説を手がかりに~

 ここで考えてみるに、上記の慧忠上人及び大慧上人の説から、衆生が死を迎えて身体が滅び、心も同様に滅びて何も亡くなって無に帰するように思えるが、そうであろうか。おそらく、この考え方は間違いであろうと考えられる。
 前述の夢窓上人は『大日経疏』を引いて、衆生の身心は実相であり、如来の平等なる智身であると云っている。つまり、我心として絶えず変化して働く慮知分別と無常であり衆縁和合に過ぎない生身のからだは身心一如であるからして、衆生が死を迎えれば共に滅するのみ。
 しかしながら、衆生は如来蔵・仏性なる清浄心を具有し、さらには各自に具わる仏性の開眼によって組織された応分の酬因感果の身体たる報身(※仏のように清浄無漏の真報身ではなくそれまで業や縁に依って得た段階的報身)を持っているはずである。

 「応分の酬因感果身」という名は私が独自に命名している語ではあるが、考え方の根拠自体は既にある。
 浄土宗の中島観琇上人は各自に具えたる報身があるという、

 身とは因縁和合の義である、既に和合した結果が、此に成り立てばその者の拠り処と成る「依処」というものが無ければ成らぬ、之を「国土」という。そうして見ると、「報身、報土」ということは、悟り上げたる仏の身の上にのみは、限らぬことに成るであろうと思う。それは何故というに因縁果報の関係は、何処までも三世的で在って、過去の業因と、過去の業因が寄り集って、互に因と成り縁と成って、現在の果報と現れ、その現在の果報と、果報とが、又互に因と成り縁と成って、業因を作り、未来の結果を迎えることに成る。此の意味から見ると、仮令何んな有様にも、現在の果報と現われたる程のものであれば、善悪ともに、みな「報身報土」というて差支えない道理である、然るにも拘らず、仮令、地上の大菩薩といえども、未だ仏果に至らざる者の果報をば「報身報土」という名を与え無いのは、如何なる訳であろうか、是は余程よく考えて見ねば成らぬことである、何故というに、地獄の衆生だからとて、果報は果報である、既に果報と成って顕われたる身体であるならば、全く「報身」というて差支えない況してその様なる悪業因のみに依って、得たる果報でない、多少善因をも行うて、人間界に生れ出でたる程の衆生であれば、その果報をば、悉く「報身報土」というて差支えない筈である、是れお互に、現在の真相は、みな果報の身の上であるからである、されば何故に、仏の御果報の上にのみ「報身報土」という詞を用いるかということは、能々研究して見たいことである。
 そこでその「報身報土」ということも。唯果報とのみ見るときは、全くその通りであろう、けれども今は「仏の真報身、真報土」という上から、いうのであるから、只の「因縁業報」とのみ見る訳では無いのである。然るに「真報身、真報土」というときには、最早、有漏不浄の範囲は、絶対に解脱して了うて、全く純真の無漏に至った上の果報である。

『佛教思想講話』中島観琇 洛東書院 132~134頁
  • ※仏陀は完全なる報身、即ち真報身であり、菩薩以下の衆生は果報としての報身を保持しているということである。
     
      仏性(=如来蔵)と応分の酬因感果身(=報身)は元来真如法身(=心真如)を体としているもので、無衰無変であり朽ちて滅びることはないのであって、身心一如として常住である。
     言い換えれば、迷妄なる世界を主とすれば、慮知分別心と生身(肉体)は身心一如として、死を迎えれば共に滅するが、真如界(いわゆる仏の目線)を主とすれば、仏性なる清浄心と応分の酬因感果の身体は身心一如としてもとより常住であるから、共に滅することはない。
     したがって身心一如説は穢土(我執なる迷界)を側面とするものと浄土(真如なる仏界)を側面とするものを考えなければならないのである。
     これによって、身心は共に滅するとも言えるし、滅しないとも言える、またどちらでもないとも言えるし、どちらでもないのでもないとも言えるのである。
     これを夢窓上人は縁生(えんしょう)と法尒(ほうに)と云っている、

 色(身)と心の二法に、それぞれ縁生と法尒(天然)との差別がある。諸縁が和合して、仮に生ずる相があるのを、縁生と名づける。煩悩の中にある真如のうちに円満具足している性徳(よい働き)をば、法尒と言っている。

『夢中問答集』川瀬一馬〔訳註〕講談社学術文庫 426頁

 そして『円覚経』の一節を引いて云う、

 「円覚経」に言っている、幻身がなくなってしまうがために、幻心もまたなくなる。幻心がなくなるが故に、幻塵(まぼろしけがれ)もまたなくなる。幻塵がなくなるからして、幻滅(まぼろしの覚り)もまたなくなる。幻滅がなくなるからして、非幻はなくならない。

『夢中問答集』川瀬一馬〔訳註〕講談社学術文庫 427~428頁

 つまり以下のような二つの考え方が導かれる
①生滅変化する縁生の身心→生身(肉体)&心(慮知分別)
②常住不滅の法尒の身心→各自が具えている応分の酬因感果の身体(報身)&清浄心(仏性・如来蔵)
 したがって、身が滅するという時は必ず心も滅するのであるし、身が滅しないならば心も滅しないのである。
 南陽慧忠上人が、「身体は滅びるが、心は変わらない」と答えた僧に対して、「それこそ、仏教外の神我(霊妙な我)の考えだ」と云ったこと、並びに大慧普覚上人が「この死骸その物が、即その人だ。心は身体、身体は心だ」と云ったことの疑問が解かってくるようである。仏教においても『楞伽経』や『涅槃経』などで「真我」や「大我」が説かれるが、仏教以外で説かれる「神我」とは違うということである。
 仏教以外(外道)では生滅する縁生の肉体と生滅しない法尒の心という対応しない身心の二種を説くのみで矛盾があるが、仏教では生滅の身心と不滅の身心の二種を説くのである。

仏教と外道の身心観の違い

 仏教と外道の違いを窺うと次のようになるのであろうか、

仏教

①縁生身・縁生心
②法尒身・法尒心
外道(仏教以外)
①縁生身
②法尒心

 仏教では諸縁和合の身心と円満具足の身心を説き、外道(仏教以外)が説く身心観は片手落ちであり不備なるものであるということが考えられるのである。まだまだ研究の余地があるが現段階での私の理解ではこれ以上掘り下げることができないのでここまでとする。


 

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