仏教徒の三宝帰依
仏教徒であるためには先ず仏・法・僧という仏教で最も大切とされる三宝への帰依がなければならないことは以前書いた記事でも述べた。
『郁伽長者所問経』に、
と説かれており、これは三帰戒とされる戒の一つであることは周知のことである。また上記の文では「在家の菩薩」と説かれているが、「出家の菩薩」であれば当然出家作法において、三帰戒を受けていることは言うまでもない。
出家作法について『大品』には、
『勝鬘経』には、
仏の教えを受け入れるということは、仏に帰依し、さらには法と僧にも帰依せざるを得ないということが説かれる。
また『護国尊者所問経』には、
と云って、三宝に帰依しないことは仏教徒の目標である「成仏」への妨げであるとしている。
ダライラマ14世の教えにも、
と云って、必ず三帰依が必要であるという。
仏・法・僧の三宝への帰依が必要であることが理解できたのであるが、では帰依する用心はどうすればよいのかを『郁伽長者所問経』から学んでみたい。
帰依仏宝の用心
先ずは仏へ帰依する際の用心を窺うと、
仏教徒が仏陀と成ることを目標とするにあたり、功徳で飾られた仏の身体手本としてその功徳を自分も同じように具えることを期して仏教的善業を修してさとりのために回向するわけである。「仏を尊崇すること」でも述べたが、目指すべき仏陀への尊崇の想いがなければ、自分も仏として他者から尊崇されることはありえないわけであるから、この『郁伽長者所問経』の文は仏へ帰依する用心の基本にして終局を説いているのである。
『大乗起信論』の言葉も見てみると、
『郁伽長者所問経』とほぼ同じ説示である。念仏・善業・回向を基本とするのであろう。
帰依法宝の用心
次に法へ帰依する際の用心を窺うと、
仏教で説かれる教えに尊崇の心を持つと、例えば教えが書かれた経本などを粗末に扱うことは絶対にないであろう。だからこそ、読経の時などには香に薫じて恭しく頂戴し、敬意をもって接するのである。
菩薩が必ず起こす「四弘誓願」の中に、「法門無尽誓願知」(法門は無尽なれども誓って知らんことを願う)と称える一文がある。つまり、仏教を極めることは果てしないが、学び尽くしたいという願望を持つのである。
ここで着目したのは、「法を説く師たちに信頼し、親近し、恭敬して礼拝供養する」という言葉である。これは「因人重法」(人に因って法を重んずる)と云って、たとえ法を説く者が仏陀ではなく、菩薩や祖師であったとしても、蔑ろにしてはいけないということである。
『大乗起信論』の言葉も見てみると、
念法(法に帰依する)・信順・菩薩行をもって帰依法宝の用心とするのである。
帰依僧宝の用心
最後は僧へ帰依する際の用心は、
仏教徒は同じ仏教徒に対して互いに尊崇の念をもって接していかなければならないということである。それはたとえ相手が菩薩や阿羅漢と称される者であろうと、罪悪生死の凡夫であろうと、修行が未完成の者であろうと関係なく敬意を表するということ。
『大乗起信論』には、
『郁伽長者所問経』の内容を端的に表した一節である。ここで着目したいのは、『郁伽長者所問経』の「修道の歩みにおいてもはや退くことのない菩薩たちの集まり(僧伽)をこそたよるのであって」の文であるが、『大乗起信論』においても、菩薩方からさとりの実践を学ぶことを強調されていることは大乗仏教の態度を示している。
仏教徒にとって三宝への帰依は必須である
ここまで見てきたように仏教徒が何故に仏・法・僧へ帰依するのかというに、仏教の目的である「成仏」に必要不可欠なものだからである。
真宗の隈部慈明師は『大乗起信論精義』において、
と述べておられるように、仏教は宗教であるからこの三帰依(三帰戒)をしないというわけにはいかないのである。たとえ始めは帰依の心が起きないとしても、『勝鬘経』に云うように終局は三宝に帰依して仏教徒になるのである。もし帰依の心が起きないのであれば、聞いても聞かず、つまりは仏の教えに耳を塞いでいるということである。
そうは言っても経典に説かれるようなことはなかなか難しい。『郁伽長者所問経』には三宝帰依の方法が端的説かれているので最後にその文を記載しておきたい。いわゆる「念仏・念法・念僧」である。