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仏教徒は必ず三宝(仏・法・僧)に帰依しなければならない~『郁伽長者所問経』と『大品』~

仏教徒の三宝帰依

 仏教徒であるためには先ず仏・法・僧という仏教で最も大切とされる三宝への帰依がなければならないことは以前書いた記事でも述べた。
『郁伽長者所問経』に、

 居士よ、ここに、在家の菩薩は家庭に身を置きながら、仏陀に帰依すべきであり、法に帰依すべきであり、僧団(僧伽)に帰依すべきである。この三つに対する帰依によって生ずる功徳・善根をもって、この上ない正しいさとりのために廻向すべきである。

「郁伽長者所問経」『大乗仏典9 宝積部経典』長尾雅人・桜部健〔訳〕中央公論社 237頁

と説かれており、これは三帰戒とされる戒の一つであることは周知のことである。また上記の文では「在家の菩薩」と説かれているが、「出家の菩薩」であれば当然出家作法において、三帰戒を受けていることは言うまでもない。
 出家作法について『大品』には、

「今日、ここで、僧たちよ、余は独りで瞑想していたときに、このような考えが浮かんだ。
(中略)
僧たちよ、そなたたちが、いずれの方角においても、またいずれの地方においても、出家させたり具足戒を授けることを認めよう。そして、出家させたり具足戒を授けたりするには、このようにせよ。はじめに頭髪と髯を剃りり、袈裟と衣を著けさせ、片肌を脱がしたのち、僧たちの足もとに平伏させて、『このように唱えよ』と言うのだ。すなわち、『佛に帰依し奉る。 教えに帰依し奉る。僧衆に帰依し奉る』と唱え、二度目も三度目も同じ文句を唱えさせるのだ。僧たちよ、この三帰依を三度唱えることによって、出家させ、具足戒を授けることを許可する」と。

『佛教聖典 第一巻 初期経典』岩本裕〔訳〕66~67頁

『勝鬘経』には、

 だれであれ、如来によって教化された衆生たちは、如来に帰依を捧げると、そのおのずからなる結果として起こる信心によって、法と僧にも帰依を捧げます。

「勝鬘経」『大乗仏典12』 高埼直道〔訳〕 中公文庫 108頁

 仏の教えを受け入れるということは、仏に帰依し、さらには法と僧にも帰依せざるを得ないということが説かれる。

 また『護国尊者所問経』には、

 仏・法・僧の三宝や戒に対して信順する気持ちが欠けているのは、ラーシュトラパーラ、菩薩たちにとってさとりへ向かうための障碍となることがらである。

「護国尊者所問経」『大乗仏典9 宝積部経典』長尾雅人・桜部健〔訳〕中央公論社 155頁

と云って、三宝に帰依しないことは仏教徒の目標である「成仏」への妨げであるとしている。

 ダライラマ14世の教えにも、

 これら三つこそがわたしたちを苦しみから救い出してくれるもので、わたしたち仏教徒はまず最初にこれら三つのたからに対して帰依を表明するのです。

『ダライラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ―』ダライラマ14世 福田洋一〔訳〕大東出版社 6頁

と云って、必ず三帰依が必要であるという。 

仏・法・僧の三宝への帰依が必要であることが理解できたのであるが、では帰依する用心はどうすればよいのかを『郁伽長者所問経』から学んでみたい。

帰依仏宝の用心

 先ずは仏へ帰依する際の用心を窺うと、 

 居士よ、どのように在家の菩薩はほとけに帰依するのであるか。居士よ、ここに、在家の菩薩は、「やがて私がほとけとなるときには、かならず三十二の大人相による仏身のすぐれた荘厳をそなえよう」と決心し、その三十二の大人相を身にそなえるゆえんとなるべきもろもろの善根を成就しようがために、精進を起こす。このようなことが、居士よ、菩薩がほとけに帰依するということである。

「郁伽長者所問経」『大乗仏典9 宝積部経典』長尾雅人・桜部健〔訳〕中央公論社 238頁

 居士よ、また、在家の菩薩は四つのことをそなえるとき、ほとけに帰依するのである。いかなる四つをか。(1) さとりを求める心を放棄しない。(2) 誓いを破らない。(3) 大いなる慈悲を捨てない。(4)大乗以外の教えを心に思うことがない。居士よ、在家の菩薩はこれら四つの
ことをそなえるとき、ほとけに帰依するのである。

「郁伽長者所問経」『大乗仏典9 宝積部経典』長尾雅人・桜部健〔訳〕中央公論社 239頁

 仏教徒が仏陀と成ることを目標とするにあたり、功徳で飾られた仏の身体手本としてその功徳を自分も同じように具えることを期して仏教的善業を修してさとりのために回向するわけである。「仏を尊崇すること」でも述べたが、目指すべき仏陀への尊崇の想いがなければ、自分も仏として他者から尊崇されることはありえないわけであるから、この『郁伽長者所問経』の文は仏へ帰依する用心の基本にして終局を説いているのである。

 『大乗起信論』の言葉も見てみると、

 仏は無量の功徳を具えていると信ずること。すなわち、つねに仏を思い、近づき、供養し、恭敬しつつ、善根を起し、仏と同じ一切智を得たいものと祈願するからである。

『大乗起信論』宇井伯寿・高崎直道〔訳注〕岩波文庫269頁

 『郁伽長者所問経』とほぼ同じ説示である。念仏・善業・回向を基本とするのであろう。

帰依法宝の用心

 次に法へ帰依する際の用心を窺うと、

 居士よ、どのように在家の菩薩は法に帰依するのであるか。居士よ、ここに、在家の菩薩は法に対して尊崇の心をもち、敬意をもって仕える心をもち、法を求め、法を欲し、法の喜びを喜んでそれを願い、法に傾き、法を喜び、法にいたり、法を守り、法を内心に蔵しており、法による名声と法にのっとる実践の上に立ち、法において自在を得ており、法をたずね求め、法の力を有し、法の施与という武器をもち、法の務めをなし、それはこのようであるというように正しい道理を示す法を具有するがゆえに、「私はこの上ない正しいさとりを明らかにさとって、神々をも人間をもアスラをも含めたこの全世界に対して、法によって法の趣きを説くであろう」という思いを起こす。このようなことが、居士は、在家の菩薩が法に帰依するということである。

「郁伽長者所問経」『大乗仏典9 宝積部経典』長尾雅人・桜部健〔訳〕中央公論社 238頁

 居士よ、また、在家の菩薩は四つのことをそなえるとき、法に帰依するのである。いかなる四つをか。(1)法を説く師たちに信頼し、親近し、恭敬して礼拝供養する。(2)法を聴き、法を聞いて理のごとくに観察する。(3)聞いたところの法をそのままに、了解したところのままに、他の人々にも説き明かす。(4) こうした法の施与から生ずる功徳・善根をもって、この上ない正しいさとりのために廻向する。居士よ、在家の菩薩はこれら四つのことをそなえるとき、法に帰依するのである。 

「郁伽長者所問経」『大乗仏典9 宝積部経典』長尾雅人・桜部健〔訳〕中央公論社 239頁

仏教で説かれる教えに尊崇の心を持つと、例えば教えが書かれた経本などを粗末に扱うことは絶対にないであろう。だからこそ、読経の時などには香に薫じて恭しく頂戴し、敬意をもって接するのである。
 菩薩が必ず起こす「四弘誓願」の中に、「法門無尽誓願知」(法門は無尽なれども誓って知らんことを願う)と称える一文がある。つまり、仏教を極めることは果てしないが、学び尽くしたいという願望を持つのである。
 ここで着目したのは、「法を説く師たちに信頼し、親近し、恭敬して礼拝供養する」という言葉である。これは「因人重法」(人に因って法を重んずる)と云って、たとえ法を説く者が仏陀ではなく、菩薩や祖師であったとしても、蔑ろにしてはいけないということである。

『大乗起信論』の言葉も見てみると、

 仏の教え(法)には大いなる利益があると信ずること。つねに〔法を〕思いうかべつつ、諸種の究極完全な行を実践するからである。

『大乗起信論』宇井伯寿・高崎直道〔訳注〕岩波文庫269頁

 念法(法に帰依する)・信順・菩薩行をもって帰依法宝の用心とするのである。

帰依僧宝の用心

 最後は僧へ帰依する際の用心は、

 居士よ、どのように在家の菩薩は僧団に帰依するのであるか。居士よ、ここに、在家の菩薩が僧団に帰依するとは、もし預流の比丘や一来や不還や阿羅漢や凡夫や独覚乗の人々や大乗の人々を見たならば、それらの一人一人に対して尊崇の心をもち、恭敬の心をもち、立ち上がって出迎える労をとり、あたたかいことばをかけ、その身のまわりを右にめぐる。彼は近づき、寄りそって、その人々に恭侍するゆえに、その人々は「私はこの上ない正しいさとりを明らかにさとって、声聞の徳を完成し、独覚の徳を完成するために、法を説こう」という思いを起こす。彼はその人々に対して尊崇の心をもち、恭敬の心をもって、その人々を倦怠せしめない。このようなことが、居士よ、在家の菩薩が僧団に帰依するということである。

「郁伽長者所問経」『大乗仏典9 宝積部経典』長尾雅人・桜部健〔訳〕中央公論社 238~239頁

 居士よ、また、在家の菩薩は四つのことをそなえるとき、僧団に帰依するのである。いかなる四つをか。(1)すでに預流の境地にいたって、かならずさとりに達すべき正しい道に定まっている声聞乗(小乗)の人々を、すべてを知る知恵を求める心、すなわち菩薩の心に導く。(2) 物による集まりに集まる人々を、あらためて法による集まりに引き入れる。(3)修道の歩みにおいてもはや退くことのない菩薩たちの集まり(僧伽)をこそたよるのであって、声聞の集まり(僧伽)をたよるのではない。(4) 声聞の徳をあまねく求めつつも、その声聞の解脱には心を寄せない。居士よ、在家の菩薩はこれら四つのことをそなえるとき、僧団に帰依するのである。

「郁伽長者所問経」『大乗仏典9 宝積部経典』長尾雅人・桜部健〔訳〕中央公論社 239頁

 仏教徒は同じ仏教徒に対して互いに尊崇の念をもって接していかなければならないということである。それはたとえ相手が菩薩や阿羅漢と称される者であろうと、罪悪生死の凡夫であろうと、修行が未完成の者であろうと関係なく敬意を表するということ。 

『大乗起信論』には、

 教団〔の成員たる修行者たち〕(僧)はよく自利の行、利他の行を実践するものであると信ずること。つねにねがって菩薩たちに親近し、如実の行を学ぶべく努めるからである。

『大乗起信論』宇井伯寿・高崎直道〔訳注〕岩波文庫269頁

 『郁伽長者所問経』の内容を端的に表した一節である。ここで着目したいのは、『郁伽長者所問経』の「修道の歩みにおいてもはや退くことのない菩薩たちの集まり(僧伽)をこそたよるのであって」の文であるが、『大乗起信論』においても、菩薩方からさとりの実践を学ぶことを強調されていることは大乗仏教の態度を示している。

仏教徒にとって三宝への帰依は必須である

 ここまで見てきたように仏教徒が何故に仏・法・僧へ帰依するのかというに、仏教の目的である「成仏」に必要不可欠なものだからである。
 真宗の隈部慈明師は『大乗起信論精義』において、

 帰命は宗教の精神であり意義である。自己の眞生命であるところのものに帰依信順することの外に宗教はあり得ない。

『大乗起信論精義』隈部慈明 法蔵館 40頁

と述べておられるように、仏教は宗教であるからこの三帰依(三帰戒)をしないというわけにはいかないのである。たとえ始めは帰依の心が起きないとしても、『勝鬘経』に云うように終局は三宝に帰依して仏教徒になるのである。もし帰依の心が起きないのであれば、聞いても聞かず、つまりは仏の教えに耳を塞いでいるということである。
 そうは言っても経典に説かれるようなことはなかなか難しい。『郁伽長者所問経』には三宝帰依の方法が端的説かれているので最後にその文を記載しておきたい。いわゆる「念仏・念法・念僧」である。

 居士よ、また、在家の菩薩が如来の身体を見てほとけに思いを注ぐことを得るとき、ほとけに対する帰依がある。法を聞いて法に思いを注ぐことを得るとき、法に対する帰依がある。如来の声聞の集まりを見てさとりを求める心に思いを注ぐとき、僧団に対する帰依がある。

「郁伽長者所問経」『大乗仏典9 宝積部経典』長尾雅人・桜部健〔訳〕中央公論社 240頁

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