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仏教の先祖供養について

 日本仏教では先祖供養の法要を定期的に厳修することは周知の事実であるが、よく巷で云われているのは、本来の仏教には先祖供養など関係はなく、日本の俗習に過ぎないということを時折耳にする。
しかし、原始仏典の『遊行経』(『涅槃経』)を伺うと、釈尊が褒め讃えるヴァッジ族の行う七不退法の中に先祖供養が説かれている。

 経典では阿闍世王がヴァッジ族を滅ぼそうと計画を立てたところ、釈尊からやめておけと忠告を受けるのであるが、その理由に出てくるのがヴァッジ族の七不退法である。
要約すると以下の七項目である。
①よく会合する
②共に為すべきことを為す
③定められていないことを定めず、定められたことを破るず、過去に定められた法を遵守
④古老を尊敬し、供養し、彼らの言葉に耳を傾ける
⑤女性や子供を暴力で押さえつけない
⑥城の内外の廟を敬い、尊び、崇め、これまでのしきたりにしたがって供養をする
⑦宗教者を保護、居住を提供する

 これら七項目によってヴァッジ族に繁栄があり、衰亡はないことが釈尊によって説かれている。
そして六番目に先祖供養を行うことが入っている。
『遊行経』に説かれている、

しからば、アーナンダよ、ヴァッジの人々が、城の内外のヴァッジの廟を敬い、尊び、崇め、大事にして、以前から与えられ以前からなされていた法にかなえる供養を廃することのない間は、アーナンダよ、繁栄が期待せられ、衰亡することはないであろう。

『阿含経典3』増谷文雄〔訳〕ちくま学芸文庫 302頁

上記の中の「廟」というは、『新纂浄土宗大辞典』に、

廟は墓所のことであり、祖先や祖師、また貴人の霊を祀ってある所。

『WEB版新纂浄土宗大辞典』http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%BE%A1%E5%BB%9F

としているので、祖先の墓のことである。
 つまり、ヴァッジ族の祖先を祀っている処へ行って供養を行うことを云っているのである。
しかし、ここでその供養を行う際に僧侶が必要であるのかどうかが問題となる。

『楞厳経』を拝見してみると、

時に波斯匿王は、其の父王の諱日の為に斎を営み、仏を宮掖に請じ、自ら如来を迎えたてまつりて、広く珍羞無上の妙味を設け、兼て復た自ら大菩薩を延けり。城中に復た長者居士ありて、同時に僧に飯せんとて、仏の来応を佇ちたてまつれり。仏は文殊に勅し、菩薩及び阿羅漢を分領し、諸の斎主に応ぜしむ。

『仏教経典選14』荒木見悟〔訳〕 筑摩書房 10頁 

と云って、波斯匿王は亡き先代のために釈尊を導師にお迎えして法要を厳修されていたようであるから、基本的に僧侶は必要ということであろう。

この波斯匿王の行為は『梵網菩薩戒経』に説かれる規矩である。

若し父母兄弟死亡の日は、法師を請じて菩薩戒経律を講せしめ、福を以て亡者を資け、諸佛を見たてまつり。人天上に生することを得せしむべし。若し爾らずんば軽垢罪を犯す。

『浄土宗聖典』 望月信道〔編〕 浄土宗聖典刊行会 300頁

 そうなると日本仏教の年忌法要というのもあながち間違いということではないことになるが、先祖供養というのは七不退法の中の一つであって、檀信徒は他の六つの法も合わせて行っていく必要があるからこそ繁栄が期待されるのであって、日本仏教の現況のような法要のみをメインとする傾向はあまり良いとは言えない。

 また合わせて導師を勤める僧侶の心構えや修行ができていない場合においても、法要の意味がなくなってしまう。
江戸時代の僧侶・鈴木正三道人は法要の導師について厳しく教えを説いておられる
僧侶としての心構えが説かれている『麓草分』に、

亡者を弔う時に経や陀羅尼を誦え、仏道修行をして亡者の功徳とする。 [経や陀羅尼を唱えると] 仏の語の中の真理や仏道修行の功徳がまず自己に移って真実の心が発する。そうすると自己が清浄となり、清浄が極まる時には無心無念となる。 この心は虚空にく広がって通じない所が無い。そうであるから、亡者を弔う時は、先ず自己を清めることで無念の功徳が得られる。
[これは]却って亡者に弔われているのではないだろうか。そうであるのに、一般に亡者を弔う時は経陀羅尼を読誦して仏道修行を行い、苦労をして施主の功徳としてしまって自分の得益は無いと思いこみ、布施の軽い重いを測って自の心を穢すことは大いなる罪である、大切の功徳を行じて、さらに悪道の原因とするのは不心得であると知るべきである。幼少のころから仏弟子となって、身心を戒めて修行するのだから欲心の為であってはならない。出離解脱の誓願である。この道理を忘れて仏事孝養を為す時は亡者の魂を救い、自己を修行すべき心は無く、先ず布施を思うなどは慙愧(自己を恥じる)すべきことである。このような心で修行しては永久に餓鬼道に堕ちることを免れる事はできない。だから他者を弔う時は、必ず自己の得益となることを知って親しいものと疎なるものを差別せず、布施の高い低いを思うべきではない。仏の教えを学ぶ弟子がどうして利欲に堕ちているのだろうか。三界を出離する修行者であるのだから、正しい道理に背いて邪道に入るべきではない。ひとすじに出家の二字を守って出離の行いを勤めるべきである。

『鈴木正三著作集市Ⅰ』加藤みち子〔編訳〕中公クラシックス 90~91頁

と云って、読経して自己が清浄となり、それによって普遍的功徳が生じて回向することができるとしているが、布施の過多や自分の功徳を脇に置いて施主の功徳と勘違いしたり、亡者への差別心があれば悪道への因となってしまうからよくよく出家者の本分を弁えろとの厳しい教示である。本来であれば至極真っ当の意見である。
 
では僧侶は日頃からどのような実践を心がければいいのかといえば、正三道人の『驢鞍橋』を伺うと、

或る日示して言われた。「初心の人は、先ず信心を祈り、呪・陀羅尼を繰って身心を尽くすのが良い。或いは八句の陀羅尼を十万回も二十万回も三十六万回も唱えて[自分の]業の障りを尽くせば、志も進み、真実 [心]も起こるであろう。先ず立派な御坊主になるという[欲望]を捨て、一向の土に成って(へりくだって)勤めなさい。」
ちなみに源長老に向かって言われる。「楞厳呪をせめて一蔵、読誦なさい。僅かのことでは長老(という地位への執着)は捨てることはできないでしょう。」

『鈴木正三著作集Ⅱ』加藤みち子〔編訳〕中公クラシックス 11〜12頁

と云って、毎日陀羅尼を称える場合は10万遍、20万遍、36万遍と多念にして業を尽くす態度で実行せよとの凄まじい教えである。
 鎌倉時代の法然上人も日課6万遍を修しておられたし、明治時代の弁栄上人にいたっては日課8〜10万遍というが、宗教的天才でもないかぎりこのようなことは難しいから、上記にあるように正三道人も源長老に対して「楞厳呪をせめて一蔵、読誦なさい。」と云っている。

 このように仏教における先祖供養は、先ずは檀信徒が七不退法を実践する中に収められているからバランスよくこれらを行じて、導師たる僧侶は日頃の読経や修行を怠らずに実践してその功徳を回向することで成り立つというわけである。

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