涅槃経梵行品の釈迦牟尼仏に対する称名念仏
涅槃経に云わく、
上記涅槃経には称名念仏、「南無仏陀」と称えることによって、仏陀が衆苦を取り除いてくれるという内容である。ここでは称名の功徳4話が説かれていて要約してみると、
第一に波羅奈国の在家信者・摩訶斯那達多が90日間において僧侶たちを招き医薬を布施していたところ、重病の僧侶がおり、医者から肉が必要なることを聞き、金銀を以って街に出て肉を求めたが得られなかった為に、自ら刀を取って自分の太ももの肉を削いで、その肉で羹を作り、香を以って僧侶に施して、僧侶の病を癒したという。
しかし、摩訶斯那達多は傷の痛みに耐えられず、「南無仏陀」と一向に称名して釈尊に助けを求めたところ、舍衛城に在ます釈尊はこれを聞き、慈悲の心を以って即座に良薬を摩訶斯那達多の傷口に塗って癒しされた。さらに釈尊は摩訶斯那達多に説法して菩提心を起こさしめたのだが、ご自身は全く舍衛城から動いたことはなかったのだと云っている。
摩訶斯那達多は過去世において無量の仏陀の下で善根を積んでいたようである。
第二には、仏教教団の反逆者として名高い提婆達多が、アルコールを取り過ぎて頭痛、胃痛などの苦しみに耐えられずに「南無仏陀」と称名したところ釈尊は優禅尼城にてこれを聞き、慈悲の心でもって提婆達多の頭や腹を撫で白湯を与えるなどの手当したのだが、釈尊ご自身は優禅尼城から動いて上記の行いをしたわけではないと云い、しかも提婆達多は上記のことを目の当たりにしたという。これを「慈善根のカ」と仏は云っている。
第三には、憍薩羅国に五百人もの盗賊がいて、多くの人々に害を為して被害が多かったので、波斯匿王は兵隊をもって盗賊を捕らえて、彼らの目を抉って暗い森林に追いやってしまったいう。彼らは目を失って苦悩を受けて、仏に助けを求めて「南無仏陀、現在の我々には救い護られることがない」と祈ると、祇園精舎に在ます釈尊はこれを聞き慈悲の心を起こされた、その時涼風と共に香薬が吹いて盗賊の眼も治り、仏が目の前に立たれて説法をされ、菩提心を発したという。しかし、釈尊ご自身はそれらの行動を意識して為したわけではないとしている。盗賊たちは過去世において無量の仏陀の下で徳本を植えていたようである。
第四には、瑠璃太子は真理に対して無明だったが為に、父王を廃して、王となり、自身の出生の経緯から釈迦族を怨み、一万二千人の釈迦族の女性の耳鼻手足を削ぐという残虐をして穴に閉じ込めてしまった。彼女たちは苦悩から「南無仏陀」と叫んだところ、竹林精舎に在ます釈尊はこれを聞き、即時に迦毗羅城に至って、薬を与えて身体を元通りにして苦悩を除いて、説法して菩提心を起こさしめた。そしてその後彼女たちは大愛道比丘尼の下で出家して受戒したのであるが、釈尊ご自身は実際には迦毗羅城には赴かなかったと云っている。やはり仏はこれを「慈善根のカ」としている。彼女たちは摩訶斯那達多と同様に過去世において無量の仏陀の下で善根を積んでいたようである。
仏の慈善根のカ
慈経に云わく、
観無量寿経に云わく、
無量経に云わく
法然上人云わく、
弁栄上人云わく、
仏が常時持つところの慈悲を被れば、身と心が柔軟になり、歓喜と菩提心を発さしめるのである。「この光」というのが、即ち「慈善根のカ」であり、仏の救いの力の根源である。
無縁の慈悲
涅槃経において、釈尊は自身が不動にして衆生を無意識のうちにその場に向って救っており、矛盾した発言をされているが、実にこれ仏陀の無縁の慈悲というものである。
夢中問答集に云わく、
「仏果に到りて後、本有性徳の慈悲現はれて、化度の心を発さざれども、自然に衆生を度すること、月の衆水に影をうつすがごとし。」であるから、無意識中に衆生を救うのである。
観無量寿経に云わく、
仏と衆生の親子関係
法華経に云わく、
仏陀は一切衆生を慈悲の心でもって、仏の子として常に憐れむ。
善導大師云わく、
仏は衆生の身・口・意の三業に呼応して、すべてを照覧し現前に現れ、恩寵を与える。
首楞厳経に云わく、
母と子の憶念深く一つになっていれば、形と影とに同じくして相違しないとする。
南無の功徳
法華経に云わく、
善導大師云わく、
道元禅師云わく、
仏と衆生の感応道交するところに救済が確定する。