仏教の妄念と強迫観念
私自身が過去に強迫神経症になり治療を受け、その後仏教にのめり込んでからは強迫観念が起こることもあまり気にしなくなった生活を送っていたが、少し前に習気程度ではあるが、実に何十年ぶりかわからないが強迫観念に囚われることが屡々あった。これが知らず知らずのうちに忍び寄る再発なのであろう。
そこで私は今一度仏教の先人が遺された説示を紐解きその対処法の研究をしていたところ、あまり囚われることのない状態に再び修正することができたように思う。私自身は心の病に関しては門外漢もいいところなので仏教思想を取り入れることが良いことなのかは知らない。仏教は元来、生死・宗教的罪悪・信仰立命などの問題をこそ主とするもであって、精神治療をもって主軸とする教えではないことはいうまでもないことではあるが、仏教の信仰から来る相乗効果ということもあり得るだろう。
ここでは、私が参考にした先徳方のうち、禅門の盤珪永琢上人と浄土門の山崎弁栄上人の教示を取り上げてみたい。お二方の説示の中には当然のことながら強迫観念などという言葉や概念は出てこないが、いわゆる仏教でいうところの妄念や妄想などがそれに当たるであろうと思われるし、盤珪上人の問答や弁栄上人の妄想論などは強迫観念に比する形で取り上げることができると思うのである。
先ず強迫観念とはなにものであるかというに精神科の専門家の見解を窺うと、
上記から考えてみるに、仏教で云われるところの妄念や妄想に限りなく近い。仏教では本来衆生は清浄心(清浄無垢識)とされる仏性を具有しており、自我や分別にとらわれるところから妄念や妄想を起こしてしまうと考えられている。
『大乗起信論』には、
盤珪永琢上人の妄念退治法
禅門の盤珪上人は誠に簡潔かつ直截に妄念への対処法を示してくださっている。
「念」というものに囚われると、強迫観念と強迫行為のサイクルのように当に「やめられない心」と「やめようと思う心」の二つが止むことなく続いて安心は得られないという。妄念とは何かの縁に触れて仮に生じたり滅したりするもので、本来その実体などはないと取り合わないようにすべきであると説かれる。
いわゆる強迫観念もトリガー(惹起刺激)に触れて、起きたる念の類であり、実体はないものであれば取り合わない態度を取るということであろう。
続いては次の説示も見てみたい、
意味が取りにくいところもあるが、念を止めようとすればそれは血を血で洗うようなものであって治まることはないという。衆生の心は本来仏心なる穢れのない鏡であって、鏡は対象を写すが気にも留めず、また対象が去れば去ったでそのことを跡に残さないようなものであるという。
次に説示も同じである、
どれだけ妄念や観念が起こっても、放置して取り合わない態度を続けていけば、最後は念があってもよくなくてもよいというような状態となるいうのであろう。
しかしこの妄念や観念に取り合わないでいようとすると今度はその取り合わないでいようとする心に囚われてしまうのである。
盤珪上人の信徒にもいたようである、
これは「起るまま止むまま」というは、念に対して作為をしないということであり何かそういう方法があるのでない、もしあればそれは作為をしているから「起るまま止むまま」になることとは矛盾していることを指摘するものである。
では一体日常における生活態度はどのようにすればいいのかというに、盤珪上人は具体的なことはあまり説かれないようである。先ほどの信徒のようになるからである。
山崎弁栄上人の妄念退治法
浄土門の弁栄上人は禅門の盤珪上人とは違って具体的な指標を説いておられるが、これは各宗旨のあり様から来ているからであり、目指すべきところ自体に相違はない。
説示を見てみよう、
これは盤珪上人と同じく実体なき念に自ら囚われて縛られているという。
そして煩悶が続けば心の病的作用へと進んでしまう。
※1寂寞…心が満たされずにもの寂しいさま
無聊…退屈なこと。心が楽しまないこと。気が晴れないこと
※2坐(そぞろ)…そわそわして落ち着かないさま。何かに気を取られて目前のことに集中できないさま。
※3怏々…不平不満のあるさま。
※4呻吟…苦しみうめくこと
弁栄上人は妄念に囚われた状態を空想餓鬼として次のように云う、
上記弁栄上人の説示において着目すべきは、「活動を以て空想飛散せしめ」というところであろう。確かに妄念や脅迫観念などは生産的活動に専念している時はほとんど意識に上ることは無いように考えられる。生産的活動とは何も仕事や賃金を得るような活動だけを指すのではない、趣味や興味のあることでも何でも熱中している場合などである。その活動の時は余計な思いなどは脇に追いやっていることが多い。
妄念や強迫観念は暇を付け狙ってくる
結局、妄念や強迫観念への対処は、盤珪上人の「起るまま止むままに」と弁栄上人の「活動を以て空想飛散せしめ」という二つに尽きるであろうと思う。私自身にも強迫観念の習気があるが、両上人の説示に倣っておれば、暴れだすこともないはずである。
冒頭でも述べたが仏教は精神治療をもって主とする教えではない、仏教徒であれば仏教の考え方をそれに活かすことができるのではないかと私自身が考えて、少しばかり実践したことの一端をここに記したまでである。
何かの参考になれば幸いである。