教えを聴聞するとはどういうことなのか
一体仏教徒はなぜ仏の教えを聞くこと(仏典の読むことも含む)を重要視するのかを考えてみたい。チベット仏教の中興の祖とされるツォンカパ大師の説示を伺うと次のように云っている、
上記の言葉で先ず『ウダーナ』からの引用があるが、これは以下の経典からの引用であろう。
聞法の実践は経典に説かれるように、仏法を知る、廃悪修善に勤める、非利益なことを捨てる、涅槃の獲得の四つのためにあるのだという。
ツォンカパ大師は四つを釈して、善悪の選択取捨、止悪の戒、善業への定、無我証得の慧としておられる。つまり、教えの領解から戒定慧の三学を通して涅槃に至ることが聞法の目的であるいうのである。
浄土宗の弁栄上人は教えを聞くことは自分の感覚以上の世界や道理を前もって知ることができ、それによって我見から解放されることを説いている。
仏典には先徳による手本が示されているのであるから、大いにして仏道を歩む糧とせよというのである。但し、仏典などはあくまでも本質を発見するための材料であるから、これに縛られては意味がない。
したがって、また云われるには、
教えを聞く、あるいは仏典を読むことによって、我見から離れることができると弁栄上人は例を出して云っている、
ここで弁栄上人は浄土僧と禅僧を例にして、浄土門は『阿弥陀経』などを拝読することで、体験はまだしていないが法界の無限なることを感覚的に知ることができる。しかし、禅門は不立文字を掲げて、自己以外に別に仏界ということを考えない。
この違いを弁栄上人はさらに例を出して、現代人と昔の人の世界に対する認識の範囲に雲泥の差があることに喩えている。昔はどんなに頭の良い人であっても、世界はインド・中国・日本程度にしか認識範囲がなかったが、現代人は小学校でも地球儀で宇宙のことを学んでいるので、世界の認識範囲は現在の小学生にも及ばないというのである。
したがって、ツォンカパ大師は戒めとして次のように仰せである、
よくよく教えを聞いたり、聖教を拝読して勝手な見解にとらわれないようにしなければならない。