仏教徒は必ずブッダに帰依する
巷では多くの仏教書が数多く出版されているが、それらは大抵仏教になっていない。なぜかというと、著者のほとんどがブッダへの帰依の表明がなかったり、また日常的な読経や念仏、坐禅、種々の法要参列などのブッダに対する信仰告白がない。仏教には先ず何よりも三宝(仏・法・僧)への信仰、特にその筆頭であるところのブッダへの信仰がなければならない、ブッダへの信仰がないところで仏教を語ってもそれは仏教にはならないのである。
ツォンカパ大師の言葉
チベット仏教の中興の祖として知られる仏教史上における最大級の学僧であるツォンカパ大師が云っている、
ツォンカパ大師ほどの学僧にしても、三宝への帰依がなければ始まらないと仰る。
チャンドラゴーミンの帰敬
ツォンカパ大師だけではない、各祖師方も同じ態度である。先ずはインド仏教の先徳の旋陀羅瞿民(チャンドラゴーミン)である。
チャンドラゴーミンは7世紀にナーランダー寺院で中観派の月称(チャンドラキールティ)と大論争を行った唯識派の大学者であり、『ターラナータ印度仏教史』に次のようなことが述べられている、
チャンドラゴーミンほどの大学者にしても、先ずは本尊への帰依(観音への祈願)が日課であり、その上で仏教教理や思想を展開していることは特筆すべきことである。
ツォンカパ大師の帰敬
ツォンカパ大師も先に取り上げた『菩提道次第小論』の序分において帰敬偈を挙げてから著作をしている。
馬鳴菩薩の帰敬
馬鳴菩薩も『大乗起信論』の序分において、先ず帰敬偈から始まる。
自身の仏教思想を説く際にもしっかりとブッダへの帰依を挙げておられる。
天親菩薩の帰敬
天親菩薩も『往生論』の始めに帰敬偈がある。
ここにもブッダへの帰依、並びに修多羅(法)の帰依から願偈を説くとしている。
善導大師の帰敬
浄土教の大成者である善導大師は『観経疏』の「玄義分」の冒頭から云っている、
自身の解釈を述べるにあたって、先ず三宝への帰依を表明しているのである。
大珠慧海上人の帰敬
唐代の禅僧、大珠慧海上人もその著書『頓悟要門』の序分においてしっかりと帰敬偈を挙げている、
禅門の仏教者でさえも三宝への帰依を述べてから自身の教理・教学を展開しているのである。
最後に
上記の先徳によるブッダを始めとした三宝への帰敬から思うに、巷にあふれる多くの仏教書は仏教になっていないことがはっきりと解る。多くの有名人や文化人と云われる方々が仏教を題材にして著作を発表しているが、一体どれだけの著者が信仰心を発した上で仏教書を著しているだろうか。著書の中にも帰敬偈はまずないし、著者が日常的に別時念仏会や坐禅会などの種々の行を修しているという信仰表明もないことが多いことから、甚だ怪しいと感じてしまうのである。
私自身は浄土門の仏教徒なので日課称名や別時念仏を日常的に修する側からすれば、帰依もせずにブッダや教理について述べるのは偽りでしかないと思える。
帰依がなければ何を語ろうとも、ツォンカパ大師が云うように「仏教者には入っていない」のである。私が仏教書を読む時は先ず何よりも作者に帰依の心があるかどうかを調べてから読むようにしている。そうでなければその書籍は仏教でないのだから、仏教を学ぶことから外れてしまい、貴重な時間を無駄にすることとなる。
このことは非常に重要なことであるのに、あまり話題になることがないのでここで述べた次第である。