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大乗仏教の四諦説~山崎弁栄の説を中心に~

「四諦」とは苦諦・集諦・滅諦・道諦の四つ。
仏教の実践的原理であり、根本教説。

本来「四諦」は四聖道(仏・菩薩・縁覚・声聞)の中における「声聞乗」、いわゆる小乗の教説として説かれるが、浄土宗の弁栄上人は無量(菩薩)の四諦と無作(円具)の四諦、つまり「大乗の四諦」を上げる。
「大乗」の四諦説はあまり目にすることがないので、ここでは私的研究として取り上げてみる。
「声聞乗」と「菩薩乗」(大乗)では四諦の考え方が全く異なっている。


まず声聞の四諦とは弁栄上人によれば、

一に凡夫の受くる生死は実に苦なりと諦に認めて之を出んとす。二に生死の苦因は煩悩であると認めて之を断ぜんとす。三に涅槃静楽を諦に証るを滅諦と云ふ。四に涅槃を得る道品を諦かに修む。(『永生の光』山崎弁栄 4頁 光明会本部教学部)

①苦諦―生死は苦である。
②集諦―苦の原因は煩悩である。
③滅諦―煩悩と生死の苦が滅すれば涅槃という真実の安楽が得られる。
④道諦―涅槃に到るには八正道等を修する。
上記の四諦は様々な仏教書で解説されている教説である。

続いて弁栄上人は無量の四諦(別教大乗の菩薩)について、

大乗の菩薩が苦集滅道に対する観想は苦に無量あり。菩薩は一切衆生の苦を我苦とす、故に衆生に苦ある限りは、我苦なり。衆生無量なるが故に苦もまた無量である。二、集諦 一切衆生の煩悩無量である。衆生の煩悩無量の故に我煩悩もまた無量なり。三、滅諦、一切衆生と俱に無上の仏果を期す。衆生無量の故に我成仏涅槃もまた無量である。四、道諦、仏道 実に無量恒沙の仏法悉く学び法門無尽誓って学知せんと。是を菩薩無量の四諦と名づく。(山崎弁栄『光明の生活』328~329頁 弁栄聖者遺稿出版会)

上記の文から大乗の四諦は四弘誓願に相当することが考えられる。四弘誓願について浄土宗では「日常勤行式」の「総願偈」中に説かれる。

⑴衆生無辺誓願度(衆生は無辺なれども誓って度せんことを願う)
⑵煩悩無辺誓願断(煩悩は無辺なれども誓って断ぜんことを願う)
⑶法門無尽誓願知(法門は無尽なれども誓って知らんことを願う)
⑷無上菩提誓願証(菩提は無上なれども誓って証せんことを願う)

したがって、「菩薩の四諦」と「四弘誓願」は以下のように対応する。
①苦諦……⑴衆生無辺誓願度  ②集諦……⑵煩悩無辺誓願断
③滅諦……⑷無上菩提誓願証  ④道諦……⑶法門無尽誓願知
※四諦の③④と四弘誓願⑶⑷は順番通りではない。

大乗の菩薩の四諦とは「四弘誓願」に他ならない。
四弘誓願は大乗菩薩が仏陀を目指すうえで必ず起こす願いであり、つまり菩提心のことである。この菩提心の生起は、たとえ菩薩行が稚拙であっても成仏の種子であり、二乗(声聞・縁覚)を圧倒する功徳を持つ。


チベット仏教の学僧ツォンカパ大師は『菩提道次第小論』の中で、『華厳経』中の「入法界品」の説を以て菩提心の絶対的価値を説く。

そのように大乗に入る〔・発趣する〕ことが必要であるのなら、入る門はどこからなのかと思うなら、それについて、勝者〔仏陀世尊〕は〔顕教の〕波羅蜜〔の大乗〕と〔秘密〕真言の大乗との二つを説かれているが、それより他の大乗は無いのです。その二つのどちらの門に入っても、入る門は菩提心だけなのです。それがいつか相続に生じたなら、他の何〔の功徳〕も生じていなくても、大乗者だと設定される〔のです。です〕が、いつかそれを離れたなら、空性を証するなどの功徳がどれほどあっても、声聞〔・独覚〕などの地に堕ちるし大乗より退出する〔のです。その〕ことは、大乗の多くの典籍に説かれているし、正理によってもまた成立するのです。よって、大乗者はその心が有るか無いかに従って進退があるのです。
そのようにまた『入行論』に、〔輪廻の牢獄に繋がれた哀れな者も、〕その心が生ずるやいなや、仏子(菩薩)になることを説かれています。『〔華厳経入法界品・〕弥勒解脱』にもまた、『良家の子よ。たとえば金剛石の宝は砕いても、金の勝れた装飾すべてを圧倒するし、金剛石の宝の名をもまた失わない。貧困すべてをもまた退ける。良家の子よ、同じく一切智への発心という金剛石の宝は勉励を離れていても、声聞と独覚の功徳という金の装飾すべてを圧倒するし、菩薩の名をもまた失わない。輪廻の貧窮すべてをもまた退ける』といって、〔菩薩〕行を学んでいなくても、その心が有るなら、菩薩だと説かれています。
(『悟りへの階梯 チベット仏教の原典・ツォンカパ〔菩提道次第小論〕』
ツルティム・ケサン、藤仲孝司 訳著、星雲社 160頁)

「四弘誓願」を発すことが大乗における四諦の実践である。ツォンカパ大師が説くようにたとえ行が伴わなくても菩提心を持つことが大乗仏教において最重要とされる。
浄土宗では衆生は凡夫であり、菩薩の実践が叶わないとして「願往生心」を掲げて、それをもって菩提心に相当する。

弁栄上人は願往生心について以下のように云う、

最高等なる理想即ち弥陀の中に生れ、最高等なる人格即ち仏に成らんとの念である。聖曇鸞曰く〔彼の極楽の受楽無間なるを聞いて楽を貪る為に生を求めるは不可である。願くは自ら仏に成らんが為、自ら仏に成ることは一切衆生を度はんが為、一切と共に永遠の安寧を得んが為に如来の国に生を求めるのである〕と。( 『永生の光』山崎弁栄  光明会本部教学部 18頁)

「願往生心」には必ず菩提心が具わっている必要があると曇鸞大師の説をもって述べておられる。


弁栄上人は最後に「無作の四諦(円教大乗)」についても説いている。

苦諦、仏が真実に覚って見れば此の五陰の身も心も眼の視 耳の聴く、有ゆる物は実は悉く真如の現われにてある。然らば生死の苦はない。真如隨縁の現われ、因縁に依って変化する迄のこと。故に生死とて本は真如なれば実に捨つべきものでない。集諦、無明も煩悩も実は本覚の体にて自覚せねばこそ煩悩と妄用しておる。此煩悩が自覚すれば即ち菩提の覚りである。
道諦、断常の二見も邪見も実は其本心に立ち還って見れば中正の知見なれば、之を除きて更に道の修すべきなし。真実の仏は本有無作の三身なれば道を修して初めて其本体が出来るべきものでない。滅諦、生死の本体が顕わるれば即ち涅槃なので生も実の生なく死も実の死なく、涅槃も真の涅槃でなく生死の本源を覚る時は即ち絶対平等法身が顕われ来りて涅槃である。斯く覚る時は生死の苦も真如の現われ涅槃も自性の現われであるとは、仏及び円教聖者の達観である。(『光明の生活』山崎弁栄 329~330頁 弁栄聖者遺稿出版会)

要するに「無作の四諦(円教大乗)」とは、苦も煩悩も覚りも修行も分別に過ぎず、一切合切が真如そのものであるという。

『維摩経』の中で維摩居士が弥勒菩薩に対して述べた以下の文がある、

観じ来れば一切の生類は悉く真如、一切万象も皆真如、道を求むるすべての聖賢も真如、汝弥勒に至るまで亦真如だ。すでに真如は絶対平等の実在であるから、もし汝、弥勒が、仏に成ると云うならば、一切の生類も亦仏になるのだ。又一切の生類は、皆正覚のすがたであるから、もし汝が仏の正覚を得ると云うならば、一切の生類も亦正覚を得るのだ。畢竟するに諸仏は、一切生類そのままの絶対寂静の真理となって、永恒に滅することが無いものだから、もし汝が、真如そのものとなることが出来るならば、一切の生類も亦真如となることが出来るのだ。(『維摩経 解深密経』岩野眞雄〔訳〕仏教経典叢書刊行会 67頁)

と説かれており、天台大師智顗はこれを『法華玄義』(『国訳大蔵経 昭和新纂宗典部 第11巻』415~416頁を参照)の中で「諸法実相印」として、大乗仏教の法印であることを述べておられる。

「無量の四諦(別教大乗の菩薩)」と「無作の四諦(円教大乗)」については天台の教説に詳細があるようだが、とりあえず浄土宗の弁栄上人が説かれる教説などから「四諦」について種々あることを取り上げて、私的考察を試みた。

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