【感想】認知症の第一人者が認知症になった
「痴呆」から「認知症」へ、その変遷と研究成果は長谷川先生の人生そのものである。
権威ある人が老いて認知症となり、夢と現実の境があいまいになっていく中で、その人の尊厳と家族の葛藤が描かれ、認知症を生きるとはどういうことかを自らの言葉で語っていく。
忘れられない患者のエピソードと、奥様への感謝が綴られたノートに、涙が止まらなくなった。「確かさ」が失われるというのがどういうことなのか、症状が進行していく日々をどのように受け入れていくのか。手探りで近づいていく感じがする。1人であろうと、家族があろうと、老いるということは簡単ではない…。
自身が提唱したデイサービスを実際に体験して、「今日は何がしたいんですか?したくないですか?っていうことから出発してもらいたい。」と語っていたのがとても印象に残った。デイサービスになじめない方はいるだろう。卑近な例で、容易に想像がついた。
見える景色は変わらないけれど、そこには変化していく日常がある。その日常を支える愛と葛藤のなかに、蠟燭のようにゆらめく命の灯、一人一人の人間としての尊厳が確かにある。
「認知症の先輩が教えてくれたこと」も後で続けて見た。
自分が認知症になったと知ったときのショック、家族の苦しみ。パートナーとのそれまでの付き合い方、当然のように享受してきたことが当たり前ではなくなっていく。ある意味で、お互いに、自分自身に対して正直にならざるを得ない。怒り、悲しみ、苛立ち、疲労。そんな中で、失われたものへの執着を手放して、いかに自分が変わっていけるかが問われている。
老いてなお自身が変わらざるを得ないという現実を前に、本人とて諦めや絶望、尻込みする思い、自尊心が傷つく経験もある。家族もそうだ。症状が進行していく過程を認め、周囲が理解しサポートする支援体制の重要さをつくづくと感じた。
長谷川先生は、認知症は「よくできている」と語っていた。その言葉に含まれる色々なものを、どう受け止めてどう解釈するか、人によってまったく違うかもしれない。認知症について自分がどんな経験をしてきたかで、視聴して感じることも少しずつ違ってくる。
私自身は、母方の祖母と、父方の祖父母とでそれぞれ認知症の思い出があるが、それらの症状は全く違っていた。老人だから、認知症だからと言って、皆同じようになるわけではない。原因も違えば、そもそも違う人間である。話していておしゃべりの内容も違えば、人柄も、表情も、立ち居振る舞いも違う。興味関心も違う。接し方も、最期も違う。
自分がなることと、家族がなること、両方の恐怖がある。すでに変わってしまっていた祖父母について私が感じていた幼い頃の恐怖は、根源的には死への恐怖だったのかもしれないと、ドキュメンタリーを見てふと思った。大人になると、死ぬまで理性を全うしたいという現実的な目線で「病気になりたくない」とより恐怖するわけだが…、長谷川先生の言うように認知症が「よくできている」ものならば、それは確かに、残された最後の救いなのだと思う。
人はどれだけ愛し、愛されたかで、人生が決まるのかもしれない。どれだけ自由に生きようと、迷惑をかけないように準備をしようとも、自分の人生を自分で最後までコントロールすることは不可能だ。老いるところまで老いてはじめて、そのことが身に染みてやっとわかるのかもしれない。
余裕がなければ愛せない。そうかもしれない。
恐らく逆も言える。誠に愛するから、余裕が生まれるのだと。
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