「自分が生み出すもの」も「自分」なのだということ
先日お亡くなりになられた谷川俊太郎さんの命式を拝見しながら、
谷川さんの作品にはご自身の命式がくっきりと投影されていて、だからこそそれらの作品にはしっかりと存在感が生まれるのだろうな…ということを感じています。
「自分に与えられた命式を体現する」ことが「生きる」ということであり、それがひいては自分の存在感を確かなものにすると私は解釈しているのですが、
自分の身を持って自分に与えられた命式を体現すること以外にも、
自分に与えられた命式を自分の作品に投影して体現する、といった方法もアリなんだなと。
谷川さんに与えられた命式(=世界観)を表現できるのは谷川さんだけで、
その作品を通して、ご自分に与えられた世界観をくっきりはっきり私たちに見せてくれるから、
私たちは共感できる部分にくっきりはっきり共感でき、
未知の部分にくっきりはっきり感銘を受ける。
この私たちが感じる「くっきりはっきりとした感覚」がその作品の存在感を高めるのかもしれません。
そういえば、役者さんなどは、ご自分の命式に合った役柄がご自身のはまり役となり、ご自身の代名詞になる、
またその舞台、ドラマ、映画は大いにヒットするといった現象を生む例も数々あったな、と思い出したりもしています。
(最近のドラマであれば「海のはじまり」の目黒連さん。なつくん役がピッタリで、ドラマもヒットしましたね。)
よくよく考えれば、
作品にせよ役柄にせよ、それらは「自分が生み出したもの」であって、つまりは「自分の分身」とも言え、
大きくとらえれば「自分が生み出したもの」も「自分の一部」であるので、
「自分が生み出したもの」に自分の命式を投影すると起こる現象は
自分の身に投影した場合と同様の現象が起こって当然ということになりますね。
このような考えに至ると、
今、書いている文章にも慎重になります笑
自分が書く文章も、選ぶ言葉も、自分の命式を体現できているのか?
生みだすからには命式を体現しているべきで、
そうでなければこの文章も言葉も何の意味もなさないのではないか?
…そんなことを考えたりもします💦