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子どもと親の存在

夏のドラマが終了していく時期ですね。
毎週楽しみにみていたドラマがいくつかある中でも、「海のはじまり」と「西園寺さんは家事をしない」は個人的に胸を打たれることが多く、考えさせられもした私にとっては心に残るドラマでした。

この二つのドラマは「小さな子ども」に焦点が当てられていることが共通点で、特に「子どもの中の母親の存在」についていろいろと考えさせられました。


「海のはじまり」に出てくる小さな海ちゃんは、母親と二人で生活していたところ、母親が病気で他界しこれまで話でしか聞いていなかった父親との生活を始めるのですが、
これからは二人で頑張っていこう、という父親の言動に対して、
「(ママはここに)いなかったら、いないの?」とたずねます。

「西園寺さんは家事をしない」に出てくる幼いルカちゃんにとっては、
ママが他界していてもママの位置はママのもので、
西園寺さんのことは好きだけれども、西園寺さんがその位置に入ることには納得ができない、
けれどある時、パパと西園寺さんと一緒に楽しい時間を過ごしているとその場にはママもいることを感じ安心するシーンがあり、
西園寺さんはルカちゃんがママと一緒に暮らしていたアメリカで3人一緒に生活することに決めます。


他界したからもういない、ではない
他界したから忘れよう、ではない

他界しても「いてた」ことは確かで、
他界したからといってその「いてた」ことまでなかったことにしなくていい
それを丸ごと持ったまま、前を進んで行けばいい


そうか、そうだよね、とうなずきながら、
算命学の陰占が頭をよぎりました。

陰占には自分を取り巻く環境が示されています。
おそらく海ちゃんもルカちゃんも母親干を持っており、

母親干があるからこそ、いなかったことにはできない、
いなかったことにすると自分の環境と一致せず違和感を感じる、
…そういうことなのだろうなと考えたりしました。


日干が確立しきれていない年端のいかない子どもというのは、
陽占は適切に稼働しないので、陰占の作用が色濃く出ます。
つまり、小さなお子さんであればあるほど、陰占の自分の環境に敏感になると言えます。
可能なかぎり陰占の環境を整えてあげられるといいですね。

そしてその整え方というのも、
母親干がありながらも母親が他界してしまった場合であっても、西園寺さんたちがした選択のように、
母親との生活を身近に思い出して感じられるような場所で暮らす、というもの一つの整え方になるのではないかと考えます。


そしてもうひとつ。
同じく「西園寺さんは家事をしない」の中で、料理系youtuberの横井さんが、
だし昆布はだしを取った後捨てられてしまうが、だし汁の中にはその味がちゃんと残っていることを指して、
「(別れがあったとしても)あなたはその人に何を残せましたか?」
と問いかけるシーンがあり、ドキッとしました。

もしあなたが母親干を持つお子さんをお持ちであれば、
あなたにはお子さんに何かを残す役目があり、
お子さんはそれを自分の一部として生きていくことになる。

だとすると、あなたは何をお子さんに残してあげたいですか?


ここまで「母親」「母親干」と書いてきたことは、
そのまま「父親」「父親干」と言い換えることができます。

また、もし仮にお子さんが母親干や父親干を持っていなくても、
陰占には誰しも母親の座、父親の座を持っており、
母親や父親というのはどの子どもにとっても重要であることには違いはありません。


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