持つ者、持たざる者
30代になって、周りが既にほとんど先に飛び立ってしまっている中、ようやく自分の人生という飛行機が空を飛んだように思う。
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「飛行機を飛ばすことは当たり前だ。飛ばせられていないのは頑張りが足りないからだ。」と同じような意味合いの話は人生の中でしばしばある。その言葉を発することができるのだとしたら、やはり「持つ者」側の人間であると思う。
しかしながら、今日は「持たざる者」としてのボヤきを存分に書くのだ。読んで同情して欲しいという話ではなく、書くことでこの悔しさを発散したい。そんな感じ。
ちゃんと大学へ進学して、ちゃんと就職して、結婚して、子供ができて。そんな当たり前のような人生の流れって、ちゃんとした家庭で育ってきたからこそってのが大きいなぁと思う。そもそも高校、大学と進学することはほとんど当たり前のような話だけど、そのお金や、勉強ができる環境をどうやって獲得したか。それは自分自身の努力であるのだろうか。
僕よりも過酷な環境で育った人もいるだろうし、そんな人たちならよくわかると思うけれど、飛行機が飛ぶための滑走路を親が整備を手伝ってくれているかどうか。自分で滑走路を整備・用意しなければならないとしたら、スタートラインが違っている。
飛行機=自分に知識・経験・技術・考え方などなど、飛行機としてのスペックの部分の搭載を与えて貰っているかどうかという所も、やっぱり持つ者と持たざる者で分かれる。滑走路の整備から飛行機の組み立てまでを自力で成す人間と、周りから補助されてきた人間とでは、飛び立つまでのスピード感が同じにはなりにくい。飛び立つのが遅い僕は、単なる力不足であることは承知しているが、今でもないものねだりを思っては、少し哀しい気持ちになる。
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車の免許を取った。親は一緒に住んでいないし、近くにも住んでいない。父親は一応車を持っているが、遠くに住んでいるので借りることは叶わない。
よく聞く話で、親が免許取得のためのお金を出してくれている人も多いし、自分で車を買わずとも、親から車を借りて走らせることで経験も早く積んでいくことができる。対して自分は免許も完全自費だし、車もない。親から教習所代を出してもらい、いつでも車を借りることのできる僕の彼女のことは心底羨ましく思う。そして、その育ちの格差を突きつけられている。そんな感じだから、免許をようやく取った僕の喜びと、とりあえず?でとった彼女との、運転免許に対する温度差を感じずにはいられない。妬みや文句みたいな話になったけど、嫌いだとかそういう話ではなくて、ただただ自分が惨めであると思っている。
なんとか自分でこしらえた滑走路、つぎはぎだらけの機体でなんとか飛んでるんだ僕は。周りからみたら情けない飛行機でしかないだろう。だからといって、飛ぶことを諦めたくはないし、できることはやるべきと思う。
みんな当たり前のように飛んでいて、いかに快適に飛べるかっていう部分を見ているけれど、こっちは飛べたことが奇跡みたいなもんで。
「よく飛べたな」って、そんな基準で誰かが認めてくれたら嬉しくて泣くと思う。