ジャンプ・アウト・ザ・ウィンドウ【第四話】

 瞼が開閉式ドームの屋根のように開く。すると、深みのある藍色の下地に、ナトリウムランプのオレンジ色を重ね塗りした夜空の上澄みが、眼の前に拡がっていた。

 顎を引いて、へそを見るようにして頭を少しだけ持ち上げると、斜め上方向の中空に、椰子の葉が風に揺られているのが見えた。やがて枯れている葉が椰子の木から離れ、風にあおられて自分の方向へと突進してきた。とっさに身をよじる。三秒と経たないうちに小学生の身長ぐらいある枯葉が、俺のすぐそばに、スライディングする少年野球の選手みたいな音をたてて、着陸した。落ちた枯葉とは逆の方向に首をひねると、「ガジュマル運送」と横に書かれた白い鉄の塊が、空気を切り裂きながら、通り過ぎて行った。その後には、オレンジ色の光を反射する白線が、俺の身体と平行になって、視界の外のずっと向こう側まで伸びていた。

 どうやら俺は幹線道路の中央分離帯で、ずっと寝ていたらしい。わざとらしく驚いたり茫然としたりする気にはなれない。やれやれ、またかよ、という気持ちにしかならない。俺が枕にしている下草が濡れていて不快なので、体を起こし、体育座りの姿勢をとった。見覚えのある居酒屋チェーン店の軒先に設置された電光掲示板の流れる文字が、中央分離帯に並べて植えられている椰子や棕櫚の揺れる葉群の隙間に輝いている。

 三六〇度ぐるりと周りを見て、ここが宜野湾のバイパス道路の中央分離帯であることがすぐ分かった。分かったらここに長居する必要はない。立ち上がり、センダングサの服にくっつく種に悩まされながら、中央分離帯が延びる直線の方向に沿ってまっすぐ歩き、横断歩道のある場所を探した。

 生き急ぐように疾走するバイクが通り過ぎた後、信号のない横断歩道を速足で渡る。靴下を履いているだけの裸足なので、アスファルトの硬さが背骨に響いて、腰にダメージが結構くるが、疲労はだいぶ回復しているので、今ならどこまでも歩けそうな気もしてくる。ふと立ち止まり、遠くの交差点で点滅する信号機を見る。また、あの時のような感覚だ、カトリック教会の芝生の庭に立っていた時のあの感覚。静けさ、涼しさ、空気の清冽さ、どこまでも拡張していく官能の鋭敏さ。そういったものが自分の身体に染み込んでいく気がする。月が高く昇っている。夜はとうに更けていて、道路の交通量は少ない。ここは死後の世界なのだろうか?古典的なチェックをしてみよう。俺は二つの足で歩いている、つまりちゃんと足があるので幽霊ではないだろう。足がある幽霊もいるかもしれないが。そもそも俺は唯物論者を自任しているので、タンパク質と水でできた脳の知覚するこの世界の写像が、心臓の止まった後も続くなんて馬鹿げた話は、全くもって信じていない。まぁ、死に損なったということだろう。なぜ、宜野湾の中央分離帯で目が覚めたのかは謎だが。中央分離帯に葬られたい、なんておふざけで思っていたら、まさかそこに仰向けに寝そべることになろうとは、思いもよらなかった。

 二百メートルくらい歩くと案の定靴下に穴が開き、皮膚がこすれて歩けなくなった。ちょうどいいところに土の地面の公園があった。誰もいない。ベンチに腰掛けて休むことにした。横になろうと思ったが、ホームレスの寝泊まりするのを防ぐための間仕切りがあったので、できなかった。世知辛い世の中だ。こういう世の中だから俺も無職になったのだろう。きっとそうだ。

 サイレンの音がどこからも聞こえない。綺麗な布地で包みたくなるような、もしくは、小さな針で突っつくだけで壊れてしまいそうなほど、静かな夜だ。腰を落ち着けると、やはり警察に追われていることを思い出してしまう。しかし、これだけ事件現場から離れていたら、犯罪ドラマとかによく出てくる、警察の非常線とやらの外側にはいるだろう。だから、しばらくの間は気にしなくてもいいんじゃないか。というより、死んだはずの俺が生きているという事実の前では、警察の怖さなんて遠くかすんでみえる。無敵になったよう、とまではいかないが、謎の高揚感が湧き上がってくるのを、自分の身体の奥で感じる。本当は俺、死にたくなかったんじゃないだろうか?心の奥底では。

 落ち着いてものごとを考えてみよう。これから俺は、どうすればいいのか?とりあえず遠くに逃げたい。俺は四階から飛び降りたにもかかわらず無傷で生還した男だ。なんでもできるような気がする。内地にでも高飛びするか?それには金がいる。妹夫婦から金でも借りようかな?義理の弟は海上保安官だし、二、三万くらい借りることは可能だろう。あ、やっぱやめとこう。ついこないだ甥っ子が産まれたばかりだし、当然のことながら迷惑だろう。彼らの頭を悩ませる厄介な身内にはなりたくない。そうだ、伊計島の大伯父の息子のタケおじさんなら、金を貸してくれるかもしれない。いや、親戚の集まりにはもう何年も顔を出してないのでいくらなんでもそれは難しいかも。でも、タケおじさんの妻であるミチコおばさんなら、小さいころから俺をかわいがってくれたので、なんとか言いくるめたら貸してくれそうだ。重要なことを忘れていた。伊計島はここから遠いということだ。三十キロ以上はあるだろう。靴下を履いただけの足で、これだけの路程を行軍するのは、特殊部隊のエリート兵士でも無理な注文だろう。

 なんて、うだうだ考え事をしていたら、東の空がほんのり明るくなってきた。ジョギング中の中年女性が公園の前の道路を通り過ぎる。夜明けの瞬間をこの眼で見るのは何年ぶりだろう。すがすがしさと多幸感が綯い交ぜになった何かしらの感慨が胸に満ちる。昨日のことはすべて夢だったのだろう。一旦家に帰ってみるか?それもありかもしれない。あのような信じがたい(というよりは、できれば信じたくないと表現すべきかもしれない)ことは、すべて夢だったのだ。ベンチから立ち上がり、無意識に伸びをする。すると、公園の入り口から、警察の制服を着た中肉中背の男が、こちらを向きながら入ってきた。

 警官が、伝統芸能でよく見るような摺り足で、こちらににじり寄ってくる。俺の足が、手が、体全体がこわばる。警官の足から、徐々に視線を上に移してみる。幼稚園児が書き損じた絵を塗り潰すときのような、もつれあい重なり合った黒い線が、彼の顔のすべてを覆っていた。黒い線の塊は蛆やミミズの群れのようにうごめいており、目を凝らすと画素が荒く、下手くそなCGのようでもある。

 ―……※※カトリック教会での殺人事件について……―

 そのメッセージは音波の振動を鼓膜で知覚することを前提として発せられたものなのか、それとも、俺の脳に直接伝えてくるテレパシーなのか、判別できなかった。メッセージは、直に脳みそを掴んで黒板をひっかく音を無理やり浴びせられているような気持ち悪さを帯びていた。そのなんともいえない気持ち悪さが、酷い二日酔いのように俺の身体を屈服させようとする。

 ―……※※団地での高齢男性殺害事件について……―

 ああ、もうこれはダメだ。耐えられない。ここから逃げなければ。あの警官もどきのヤバいバケモノに捕まって死ぬより酷い目に遭わされる。足に力を入れて立ち上がろうとするが、金縛りにあったように動かない。自分の身体じゃないみたいだ。あのバケモノは構わずに、少し足の速いアフリカマイマイくらいの速度でにじり寄ってくる。なんとか力を振り絞って手を動かす。その手で足を引っ張ってみる。自分の身体じゃないように重い。バケモノは警官の外観を維持しながら、三メートルの距離まで近づいて、足をぴたりと止めた。すると、バケモノの顔を覆っている黒い線の塊の輪郭が、スライムのように揺れ動き、間をおかずに顔の真ん中から突起がひねり出され、軟体動物の触手のように伸び、そのグロテスクな先端が俺を捕えようとこちらに向かってくる。

 なんとか両足を抱え込んだ。そのままベンチから地面に向かって倒れ込み、ダルマさんのようにごろごろと転がっていけば、この公園から脱出できるはずだ。幸いバケモノの動きは遅い。余裕で逃げ切れるだろう。眼前の危機から視線をずらし、公園の出口を眼から血が出る勢いで睨みつけ、頭を前に振り、重心を傾けて、倒れこむ。

 鼻先に地面がある。衝撃を受け止めたはずの両膝は、まったく痛くない。試しに足の指を動かしてみる。随意に動く。両足はもう自由に動かせるようになったみたいだ。寝返りをうつように空の方向を振り返ると、ベンチがない。そこは公園の入り口だった。立ち上がり、ベンチのほうを見ると、バケモノは俺に背を向けたまま、固まっていた。

 俺にはどうやら瞬間移動の能力が備わってしまったらしい。重力加速度に身を任せて全身を落下させると、ワープの能力が発動するようだ。ワープの到着地は自分の意思で左右できるのか、それともランダムなのか。まだ未確定だが、今さっき起きたワープ現象の経緯から考えてみるに、一定の場所を強く思い浮かべて身を投げれば、そこに移動できるという可能性は高い。もう一度試してみないと分からないが。試す勇気は無いけれども。

 警官の姿を借りたバケモノが、糸の切れた操り人形のように地面に倒れた。黒い線の塊は黒い点の群れとなり、散り散りになって空中に散逸した。なんか知らんが勝手に襲ってきて勝手に倒れた。俺はたぶんこの戦いに勝利したのだろう。それに関しては気分がスカッとした。俺を怖い目に遭わせたヤツなんて酷い目にあって当然だ。唾を吐きかけてやりたいが、本当に実行してしまうと、公園に横たわる変死体に関する、何らかの犯罪の容疑者となってしまうので、この公園をすぐさま立ち去ることに決めた。早朝に吹く清々しい風が、冷や汗で全身ぐしょ濡れであることを気付かせた。適当なところを見つけて、どこかで休みたい。できれば涼しいところがいい。ここら辺によく建っている高層アパートの屋上とか、歩道橋の上とか。

 草むらから飛び出してきた野良猫とコンマ数秒の刹那、目が合う。目が合ったのちに速足で逃げて行った。なぜだろう。あの猫から俺は例の黒い線の塊のバケモノのように見えているのだろうか?動物は人間には感じない異変にも気づいて大騒ぎするという。大地震の前などにそのような報告があるらしい。なんかの雑誌のオカルト特集で読んだ。あの猫は、俺に突如備わってしまった特殊能力に感づいていたのかもしれない。みたいなことを心の赴くまま考えていたら、俺の休憩場所としてふさわしい高層団地が見つかった。ここはオートロックではないので、部外者でも入ることができる。少し涼むだけだ。多少住民の方々に怪しまれても気にしないでおこう。

 八階までの階段を一気に上がる。涼みに来たくせに汗をかいてしまった。右側に各号室のドアが並ぶ廊下の、左側に付けられた手すりに凭れて、東シナ海をぼうっと眺める。海とは反対側に延びている森は、徐々に強くなりつつある曙光を必死にせき止めているが、やがてその暗闇の堤防は決壊することとなるだろう。

 破裂音が背後で鳴り響く。後ろを振り向くと、左奥から二番目のドアが反故紙のようにひしゃげ、配管が走るすぐ横の壁へと押し潰され、開いていた。間髪入れずに左隣のドアが、破裂音とともに開く。二つの部屋の奥から、黒い線の塊に顔を覆われた、もともとは俺と同じ人間だったであろう例のバケモノが現れ、向かって来る。

 俺の身体は公園のベンチのときのように強張り始めた。背筋に冷たいものが走る。冷や汗が止まらない。せっかく乾いたシャツがまた濡れてしまう。逃げなければ。視界の片隅で、こちらに迫ってくるバケモノに十分な注意を払いつつ、海を背にして登ってきた階段の方を向く。誰もいない。駆け足で降りれば逃げられるかもしれない。奴らとの間は四メートルほど。今しかない。左足を踏み出すと、階段の扇状の踊り場の中心に位置する手すりに、あの黒くて気持ちの悪いぐじゃぐじゃの線がまとわりついているのに気付いた。ここはダメだ。高層団地全部があのバケモノに取り憑かれているのだろうか。となると、もう手遅れで、あのバケモノからは逃げられないのかもしれない。それでも、海を正面にして右側の、朝日が顔を出しつつある方向へと走るしかない。袋小路に追い込まれると分かっていても。逃げ場は空中しかない。唾を飲む。真新しい太陽の光が、モクマオウの揺れる梢を舐めている地点を見つめ、疾走し、排水の溝を踏切台として、ジャンプする。これしかない。瞼を閉じて、伊計島の門中墓の光景を思い浮かべる。右足が手すりから離れる。俺の足の裏に確かなものは何一つ無い。もしかしたら、この世に誕生してからずっと、そうだったのかもしれない。俺一人だけが気付かなかっただけであって。

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