ジャンプ・アウト・ザ・ウィンドウ【第二話】
中学三年生のころから住んでいる県営団地の敷地の入り口の看板の、「団」の字が剝げかかっているのに気づいた。ここのところ全然外出していないし、するとしても夜中に五十メートル先の駐車場近くにあるコンビニに行くくらいのものなので全く気が付かなかった。弟の原付バイクが、階段裏の駐輪スペースで倒れたままになっている。タイヤはパンクし、ミラーとハンドルの間には蜘蛛の巣が張っている。もうしばらく乗っていないから故障してしまったのだろう。
埃まみれの階段を上り、踊り場の手すりに凭れて、海側に広がる駐車場、そして芝生の広場を眺めた。広場と駐車場を区切る縁石の隙間から、タンポポの花がひょろりと顔を出しているのを見つけて、春だな、と心の中で柄にもなくつぶやいた。風が床に溜まっている枯れた芝生に髪の毛が絡まったゴミを、西部劇のオープニングに出てくるタンブルウィードのように転がしてゆく。豆腐の販売車が団地の構内を巡回しながら、間の抜けたラッパの音色のサウンド・エフェクトを鳴らしているのが聞こえる。一階と二階の間の踊り場からは海は見えないが、二階と三階の間からは、水平線が蔓草の絡まったフェンスからかろうじて顔を出し、三階と四階の間からは、中城湾に浮かぶ津堅島や、澄んだ水色のひだに白いひっかき傷をつける小型ボートなどを望むことができる。手すりから地面を見下ろすと、地面に打ちっぱなしの、苔で薄黒く汚れたコンクリートが、日陰の冷たさをまとって、この世界で今までに起こったことや、今から起こること、そして未来で起こるであろうことに全く関心がないような静謐さを帯びて塗りこめられている。飛び降りた衝撃で周囲に飛び散る私の脳漿や血液などを違和感なく受け入れてくれそうな静謐、だと思った。海のほうに視線を移動し、凪いでいる湾に現れては消える、吹き出物のような白波を見つめていると、午前中ずっと歩き続けていた足の疲労がどっと襲いかかってきた。身体を動かすのは久しぶりなのだが、ここまでなんとか歩いて帰って来ることができたのは、一種の興奮状態で全身の感覚がある意味麻痺していたからだろう。
ドアノブをひねると、湿気とカビ臭と父親の尿臭と生ゴミの腐臭がないまぜになった部屋の空気がむっと顔にまとわりついてきた。ずっとひきこもっていて鼻が慣れていたせいで気付かなかったが、自分の家がこんなに臭かったとは思わなかった。靴箱には弟の革靴があった。そういえば死んだ弟が着ていたのは仕事着のかりゆしウェアにスラックスではなく、高校生のころから着ている学校指定の赤いジャージだった。いつも部屋着として使っている服だ。玄関から入ってすぐのリビングの食卓の上には、弟が昨日サンエーにて半額で買ってきた弁当の殻、弟が飲んだ発泡酒の空き缶が六本、弟が使った茶碗、箸などが無秩序に転がっていた。弟のランニングウェア―最近は忙しくて全然使っていないが―が椅子の背もたれに掛けられ、床には乾いて硬くなった米粒やインスタントラーメンの麺、降り積もった布埃などが窓からの斜光を微かに白く照り返し、針でつけた穴のような陰影がその白い微光を際立たせ、きめの細かい海砂のように散らばっている。奥のキッチンのシンクにはだいぶ前に使ったまま突っ込んで放置している土鍋やボウル、フライパンがみっちりと詰まって溢れかえり、中空にコバエがたかっている。キッチンの足ふきマットを踏んで、ふと無意識に、緑色の柄の包丁を探してみた。生ゴミの腐臭やぬめりに耐えながら、シンクの底まで漁ってみたが、見当たらなかった。食器棚や二十年くらい使っていて蓋がガタガタしている食器乾燥機、シンク下の引き出しの中も確認してみたが、あの包丁はなかった。
シンクに溢れかえっている洗い物の上に昨日まで置かれていた包丁が、ここに無いということは、弟の首に刺さっていた包丁が、家で使っていたあの包丁と同一なのかもしれない。そういう推理をしてみたりしたが、ここで結論をつけてしまうのが怖かったので、いったん判断を保留してスマートフォンを探すことにした。
何年か前にコーラをぶっかけてしまい、黒いシミをデカデカとつけてしまった襖を開け、四畳半の広さの、自分の部屋に戻り、スマートフォンを探した。いつもなら万年床になっている、精液とカビのにおいが混じった敷きっぱなし布団の枕元にあるのに、なぜか無かった。布団の横は衣類や文庫本、そして結婚して那覇に住んでいる五つ下の妹が私に押し付けてきた県内の求人誌などがランダムに積まれている。三分間ほど動悸しながら、自室を占領するその山塊の地層をひとつひとつ剝がして、裏返して、を繰り返していくが、やはり見つからない。もしや、と思って窓の下を見下ろすと、黒曜石の断面のような輝きを持つ長方形の物体が、芝生に雑草が混じった地面に落ちていた。
階段を降り、自分たち家族の住む三号棟の建物の裏手に回る。自室の窓の直下に私のスマートフォンを見つけた。画面は粉々に砕け、周囲に飛び散った液晶保護ガラスの破片がオオバコやオヒシバの細い葉の上で日光を浴びてきらめいている。かろうじて傷もなく残っていた電源ボタンを念のため押してみたが、もちろん何の反応もなかった。弟の死体を目にしたときには感じなかったが、心臓のあたりがぐぐっと締め付けられる感覚が私の体を襲った。まだ仕事に就いていたとき、ミスをやらかした際にこの感覚がかならずやってきたのを覚えている。
スマートフォンが壊れたので、なんかもう、途方にくれるしかなかった。部屋に帰ると、忘れていた疲労がふいに襲い掛かってきた。少し横になって休もうかと思ったが、リビングの壁掛け時計を見ると午後一時近くになっていた。デイサービスの職員がそろそろ送迎に来るので、父の部屋に行き、声をかけ、いろいろと何かしら手伝わなければならない。面倒くさいがやるのは俺しかいない。
部屋の前に放置されている脱ぎ掛けのジーンズやシャツにつまずきながら、父に声をかけた。いつも通りなら二、三秒のタイムラグの後に老人特有の声色の、けだるげな返事が返ってくるのに、何の音沙汰もなかった。部屋に入って、ベッドの毛布をしずかにめくると、吐瀉物のにおいがつんと鼻を突いた。
父の首が延長コードできつく絞めつけられていた。顔色は文字通り土の色になっていた。息はしていない。
あまりにも唐突だったので、毛布をすぐさま元通りにかぶせた。しばらく放心状態だった体に静寂がじわじわと染みこんでいき、そして我に返った。弟が死んだ。父が死んだ。しかも二人とも、とても普通じゃない死に方で。
あまりにも情報量が多すぎる一日だ。ふらふらと自分の部屋に帰り、横になった。何もかもどうでもよくなり、投げやりな気分になり、すべてを忘れてしまいたかったので、部屋の収納ボックスにひそかに隠してあった500ミリリットル缶のチューハイを二本取り出し、いつも通りツマミもなしに一本を四分半ぐらいかけて飲み、続けて二本目を二分ほどかけて飲み干し、それでも飲み足りなかったので、キッチンのシンクの下の戸棚に、みりんのペットボトルに入れて偽装して置いてあった甲類焼酎を水で割らずにそのまま一本飲み切った。目に映る部屋のすべてのものの輪郭が二重になり、吐き気と心地よさの混じった感覚が脳を支配する。意識が後頭部の方向へとフェイドアウトしていく。瞼の裏の赤みを帯びた暗闇から赤みが消え、混じりけのない黒になった。