ジャンプ・アウト・ザ・ウィンドウ【第三話】

 よくわからない材質でできた立方体の大きな物体に押しつぶされそうになったり、高いビルの屋上から飛び降りたりする悪夢に、さんざんうなされたあと、開けっぱなしの窓から入ってきた細かな雨粒が頬に触れ、目が覚めた。夕方の曇り空が暗くなり、山際に建つゴルフ練習場のライトの白い輝きが、夕空の青みがかった灰色のスクリーンに鋭い輪郭の穴を開けていた。
 起きてすぐに吐きたくなった。キッチンのシンクへと急ぐ。シンクいっぱいに溢れかえる食器や調理器具の上に、かまわず吐瀉物をぶちまける。立ち昇る臭いがすぐに父の死体を思い出させた。どうにもならない、動かすことも消すこともできないナマの現実が私の身体に迫っているのに、どことなく現実みが無いように感じられた。夢に出てきたあの得体のしれない立方体が、現実でも私を押しつぶそうとしているようにも思えた。父の死体から発生しているはずの、「死臭」と呼べるような烈しい臭いはまだキッチンや私の部屋まで漂ってきていない。鼻を二度すすってそう確かめると、ほんの少しだけ安心した。
 酔い覚ましと、あと口の中の不快感を取り除くために冷蔵庫を開けてピッチャーに入れた水を飲む。ピッチャーをからっぽのまま冷蔵庫に放置したら、お前一日中家にいるんだから水を入れろやボケと弟に激怒されたのが四日前のことなのに大昔のことのようだ。水を飲むとなぜか落ち着く。落ち着くが、アルコールがだいぶ残っているせいで思考はすっきりしない。
 開け放した窓辺の手すりに凭れて頬杖をつき、団地の敷地内にみっちりと葉を茂らせているガジュマルの木を眺めながら、小雨交じりの湿った風を網戸越しに浴び、もう「謎解き」はやめにしよう。理解不能な現実を理解不能な現実としてそのまま受け入れ、そして一切能動的には動かない。それでいいんだ、いっさい行動らしい行動をしなくてもいいんだと自分に言い聞かせてみる。言い聞かせてみるが、今までの自分がその時その時の現実を「受け入れ」ることができたかどうか、という点に考えを巡らせると、それは全くできておらず、むしろ自分は現実から逃避しつづけ、唯一できたのは逃避の結果としての先送り、つまり「一切能動的には動かない」ということしかやってこなかったんだな、という結論に至った。自分の周囲の環境を「受け入れ」たうえで自分自身がコントロール可能なことを努力するなり何なりして人生を送ることと、その現実から逃避して「何もしない」ことの間には大きな隔たりがある。俺は後者に逃げて、逃げて、逃げ続けてきたんだな、今更ながら。と改めて自覚した。これまでは逃げるだけでなんとかやり過ごせていたが、はたして弟と父の死体から逃げおおせることはできるのだろうか?懸念が胃液とともにこみ上げる。下を向けば、雨に濡れた芝生の色が少しだけ魅惑的に見えた。
 気が付けば空はだいぶ暗くなっていた。もう一度下を向く。ふいに空腹を感じた。いつも弁当を買ってきてくれた弟はもういない。たぶん俺が殺したのだろう。記憶にはないが、昨夜久しぶりの兄弟喧嘩が起き、二人家から飛び出して六キロ離れたカトリック教会までもつれあい、どちらかが持っていたキッチンの緑の柄の包丁で俺が弟の首を刺し、そして俺も気を失ってあの芝生の庭に倒れこんだ。こう考えると、いままでのできごとに一つの線を走らせることができる。つっこみどころは多いけれども。
 大事なことを忘れていた。父の死はどうやったら説明できるのだろうか?俺と弟、どちらかが殺したのか?やったのは俺だろうか?いや、弟かもしれない。弟は最近長時間労働で精神が参ってたようだから。無理もない、無職で三十路過ぎの兄と要介護の年老いた父と同居していたら、どんな強靭なメンタルを持っている勤め人でも、また、いくらホワイトな職場で勤めていても、いつかは精神がすり減らされ、イカれてしまうだろう。自分の精神を癒してくれる成分が家にはまったくないのだから。と考えてみたが、やっぱり父を殺したのは俺で、その凶行が死に至る兄弟大喧嘩の原因なんだろうな、というところに、自然に考えが落ち着いた。
 俺には父を殺す動機なんて無いに等しいが、父を殺す無軌道な衝動は無いとは言い切れない。無職の俺は無職なりに、父の介護に疲れ、未来に逆巻く不安に苛まれていたのだから。いつもの父の粗相に殺意が湧き、部屋の延長コードでとっさに絞め殺した。これはテレビの全国ニュースでよく見る、介護を苦にした親族間の殺人事件だ。このプロットはあまりにもありふれていて、不条理でしかない弟の殺人事件のそれと比べると、つっこみどころも少なく、自然と受け入れられるものだ。介護苦が生み出した俺の衝動が、父を死に至らしめた。それを目にした弟が激昂し(そりゃそうだ)、台所から包丁を持ち出すほどのもみ合いになった。くんずほぐれつしたあげく、六キロ南のあの教会で俺は二回目の殺人を犯した。これが昨夜起きたすべてなのだろう、と確信を持った。持ったというか、持ってしまった。

 もうすでに夜になっていた。あのカトリック教会の芝生の露が、パトカーの赤色回転灯の光に染められ、モクマオウの茂みのつくりだす闇が、濃くなったり薄くなったりする光景を思い浮かべた。そこでは、彩りを失ったステンドグラスと、パトカーの白いヘッドライトを反射してほんのり光るマリア像の間に「沖縄県警察 立入禁止」と書かれた黄色の規制線が張られ、鑑識課の警官が地面の芝生と同じ色の柄の包丁を手に持ち、懐中電灯を当てて念入りに観察していることだろう。あの制服の集団が、芝生の庭に集まり、俺を逮捕する証拠を一つ一つ集めている映像が、脳内にこびりつき、なかなか離れない。
 俺も社会人経験はそれなりにはあるので、日本の官僚組織の執念深さといったものは身に染みて分かっているつもりだ。その執念深さが特に発揮される組織といえば、税務署と警察だ。体力、知能ともに劣っている一無職のおっさんが太刀打ちできる組織ではないことは明白だ。逃げ場はもう、ない。
 いや、逃げ場なら窓の下にあるではないか。ここは四階だ。サッシに両足を乗せ、晴れ間に輝く月に向かってジャンプすれば、すべてが片付く。だけど死に損なって一生寝たきりか車いすの身体になれば、誰が俺の面倒を見るのか?現時点では身寄りは妹夫婦しかいない。妹夫婦にこんな無残な結末の後始末をさせるわけにはいかない、と考えたけど、どのみち刑務所に入ることになるので、妹夫婦を心配する必要はなかった。
 刑務所に入るのもそう悪くはないかもしれない。三食お風呂付きだし。だけど人間関係がちょっとね。うまくやっていけるとは思えないね。小中高と苦手だったあのヤンチャな方々よりはるかに素行のよろしくない方々の吹き溜まりにブチ込まれるのはなかなか受け入れがたいことだ。それだったら死んだ方がマシだ。そもそも、二人殺しておいて懲役刑や禁固刑で済むもんなんだろうか?死刑になるのは別にいいんだけど、いや、いいはずがないか。あの秩序正しい制服を着た刑吏に無理やり引っ張られて、日本国憲法の名において殺されるのは、うーん、なんというかあまり納得できる死に方ではない。俺の中の社会派な部分が出てくる。社会派うんぬん関係なく、死ぬときは自分のタイミングで死にたいと思う。そのタイミングとはまさに、今なのかもしれない。
 窓のサッシに腰掛け、足を宙にぶらぶらさせてみた。思いのほか夜風が心地よい。もう少し、この世界の善き部分を感じていたいのだが、あいにく時間がない。あの制服の集団はもう、弟の身元を確認し、弟の住所であるこの団地に何名か向かわせていることだろう。警察に踏み込まれる前に、すべてのけりをつけなければいけない、けりをつけなければいけないと何度も心の中で復唱してしまう。死へ向かう意志のこの奔流は、ドナルド・トランプや習近平でさえ、止めることは不可能だろう。
 書き置きのごときを遺そうかとも思ったが、妹夫婦に重荷になるようなものを押し付けたくないという気持ちがそれより勝った。一切メッセージを遺さず、突発的に、衝動的に死んだと思えばまだ彼らの気は休まるはずだ。というより、妹夫婦のことはもはやどうでもよくて、単にもう、面倒くさいだけなのだ。

パトカーのサイレンが、涼しい風に乗って団地の裏山のギンネムの茂みを撫でる。もう時間がない。今からやることは「逃げ」ではない。俺に残された唯一の主体的で建設的な行為だ。一回きりの。時間がないのは理解しているのだが、俺のお墓について考え始めてしまった。妹夫婦の尽力により伊計島の門中墓に葬られることになるだろう。綺麗な海の見える文句なしのロケーションだ。だけど俺は、どっかの幹線道路の中央分離帯に、馬鹿でかい鉄柱を墓標にして葬ってほしい。そうしたら、死に急ぐバカなバイク乗りの若者が俺の墓に衝突して死んでいくのを見て、永遠に笑っていられるだろうから。そう書き遺しておこうかな、と思ったけど冷静に考えたらあんまり面白くない冗談なのでやめておこう。冗談といえば、俺みたいなしょぼくれた一介の無職が、あの警察組織を出し抜いてみせるのは痛快な冗談といえるだろう。犯人の逮捕という彼らの至上の目的は、ついに果たされることがないのだ。夕方の全国ニュースで三十秒くらい取り上げられた後は、動機も何もかもが迷宮入りの未解決事件となり、一連のできごとは警察署のうす暗い書庫にファイリングされるだけだ。
 脳内の俺が多弁過ぎるのに、なんかもう自分でも飽きてきた。もうそろそろ最期のクリエイティブな行為を完遂しようと思う。サッシに立つ。恐怖は全く感じない。上を見上げると、雨上がりの澄んだ夜の空気に、半月の白い地表が輝いていた。俺の脳漿や臓物が、粉々になったスマートフォンの液晶保護ガラスと混じりあって、朝日にきらめく風景は、この夜に負けないほど美しいことだろう。あいにくそれを見ることはできないのだが。

 パトカーが団地の構内に入ってきた。それと同時にジャンプし、身を投げた。走馬灯、あれはフィクションの中での出来事でしかないと身をもって知ることになったのはよかった。たかが人間の脳の海馬が映し出すチンケなスライドショーが、死へと向かう無慈悲な重力加速度に追いつくことなんて、できるはずがないのだから。

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