ジャンプ・アウト・ザ・ウィンドウ【第五話】

 足の裏に、うぶ毛ぐらいの神経が弾けるような衝撃が伝わる。海の匂いを含んだ風が首のすぐ横を通り過ぎる。目論見どおり、伊計島の門中墓の前に、俺は座っていた。俺の姓が刻まれた黒い御影石製の石碑や、破風の屋根の直線、そして両端で少し跳ね上がる曲線、植え込みで揺れているハイビスカスの花などが、春の静かな風景として現前していた。耳を澄ませば墓地の裏手にある太平洋の荒波が、珊瑚礁の島を削り取る音が聞こえる。

 高所から飛び降りると瞬間移動の能力が発動するという俺の仮説は当たっていた。この能力を脅威として捉えて取り除こうとしたのか、もしくは欲していたのかはわからないが、あのバケモノたちは俺の能力を目当てにして襲ってきたのだろう。ということは、能力者である限りあのバケモノから逃げ続けなければならない。暗澹たる気持ちになった。投身自殺によって警察を出し抜くことができたと思ったら、もっと恐ろしいモノに追われるハメになるなんて。

「おい」

 背後からの声。男性の高齢者の声だ。振り向くと、クバ傘に白いもみあげ、白い無精ひげ、老人性のシミに覆われ、日焼けした顔、首にかけられた手ぬぐい、米軍基地の払い下げ店で買ってきたと思しき迷彩柄の上着、ペンキで汚れた作業用ズボンといった出で立ちの老人が立っていた。

 体感で数十秒間の間。お互いに無言である。視界ぎりぎりに延びている農道を走る軽トラの音だけが聞こえる。軽トラがギンネムの茂みに消えた瞬間、老人がこちらに歩み寄ってきた。気が付くと、顔の前の拳一個分ほどの距離に、老人の顔面と独特の体臭が現前した。老人が俺の右のもみあげを思いっきり掴む。激烈な痛みが走る。

「あ、あがっ。何すんだ、てめぇ」

 久方ぶりに言葉を発したせいか、質量を持たない情けない声しか出なかった。老人は俺の異議申し立ての声など意に介さず、腕に血管を浮かせながら俺のもみあげを上にどんどん釣り上げていく。それに比例して痛みも増していく。やがて痛みが、頭髪を引っ張られた皮膚由来のものから、脳髄の奥深くから発する激烈な痛みへと置き換えられた。と同時に、右のもみあげから、箇条書き形式の「啓示」ともいうべき情報が、口から発話される言葉を介さずに、俺の脳内に直接流し込まれた。

「啓示」は次の通りの内容だった。

・お前には瞬間移動の能力が生まれつき備わっている。

・その能力は高所から身を投げることによって発動する。

・この能力はお前だけでなく、お前の血族に生まれつき備わっている。

・能力を開花させるには、六メートル以上の高度からの落下を経験せねばならない。その通過儀礼以降は何メートルでも、何センチでも、落下した高度に比例して瞬間移動できる距離を長くすることができる。

・お前の弟や父を殺したのはお前ではない。

・殺したのは例のバケモノたちだ。

・お前はあの夜、気が動転して弟の死体を背負いながら窓から飛び降り、能力を開花させたのだ。

・お前やお前の血族の能力の臭いを嗅ぎつけた例のバケモノたちは、ランダムに選別された人間に憑りつき、襲ってくる。

・能力を発動させる瞬間に、身体から特有のオーラが発せられる。そのオーラだけが、バケモノを死に至らしめることができる。

 ざっとこういう内容だった。啓示を伝え終わり、俺のもみあげから手を離した後の老人の、左右の眼球がベアリングの球体のように高速回転し始め、回転が止まると、白目を剥き、口からは消火器のごとく勢いよく泡を吹きだし、そして後ろに力なく倒れ、後頭部を舗装にしたたか打ちつけた。

 老人は事切れているようだったので、俺は門中墓の屋根によじ登り、同じ伊計島にある大伯父の息子のタケおじさんの家を思い浮かべて、ジャンプした。

 手入れの行き届いた柔らかな芝生に着地し、柑橘系の木を植えて造ったヒンプンの生垣を迂回し、縁側から仏壇のある一番座へと足を踏み入れた。

「こんにちは、タケおじさん、お久しぶりです」

 声を掛けたが返事がない。もう畑にでも出かけているのか、それとも、まだ寝ているのだろうか。仏壇に向かって右のフローリング張りの二番座を通って、奥の台所へと向かった。ヒヌカンの背後の窓から、分厚い雲に濾された柔らかい光が差し込んでいた。

 食卓には食べかけのパンと飲みかけのコーヒーがそのままにされていた。床に目を落とすと、つややかな光沢を放つ、黒々として粘ついた液体が蛇行しながら、こちら側ににじり寄り、やがて俺のつま先を濡らした。

 タケおじさんとミチコおばさんは流し台の下で重なり合って死んでいた。タケおじさんの首には包丁が刺さり、ミチコおばさんの首には包丁で刺した痕と思われる傷口が開いていた。老人が伝えてくれた啓示のとおり、あの忌まわしいバケモノが二人を殺したに違いない。俺は二人を救えなかった。悔しい、という感情が激しく湧き上がる。

 冷蔵庫と冷凍庫を開け、たまたま買い置きされていたアイスクリームを取って、二人の形見だと思って大事に食べた。そして仲睦まじく重なりあう夫婦の亡骸に向かって、復讐を誓い、タケおじさんの靴を履き、土足のまま階段を登り、伊計大橋を思い浮かべ、二階の窓からジャンプした。

 頭の中で、アメリカのラッパー、ビッグ・ショーンの「ジャンプ・アウト・ザ・ウィンドウ」が流れ始めた。二つの島の間で渦巻く波を見下ろしながら、両足の靴ひもを念入りに縛る。“飛び降りる準備はできている”。あのバケモノを倒して復讐を遂げ、そして妹夫婦と生まれたばかりの甥っ子を守らなければならない。目を閉じて集中力を高め、那覇にある妹夫婦のアパートを必死で思い出す。近くにコンビニがあったな、そういえば。下駄履き構造のアパートで、吹き抜けが駐車場になっていたはずだ。

 欄干に立ち、目の前に拡がる太平洋の水平線を見つめる。俺はどこにでも行けるはずなのに、現実はといえば、正義感から来る俺の義務が、行き先を限定している。でも、突如降りかかってきた、不条理としか言い表せないこの状況のなかで、自分で選び取った義務の、重みが俺には心地よかった。現実を受け入れるとはこういうことなのかもしれない。その時その時の現実を、そのまま「受け入れ」たうえで、自分の能力を使い、俺や俺に関する人たちの命を護ってみせる。それが俺に課せられた使命なのだ。

 両手を広げ、まっすぐの姿勢を維持したまま海へと倒れ込む。波の細やかな反射光の群れが、俺を受け入れてくれるように思えた。那覇のアパートの駐車場に、空き缶がポイ捨てされている風景を、目を閉じて強く思い浮かべる。重力で加速した風が頬を削る。一瞬だけ瞼を開く。透明度の高い伊計島の海。魚の群れがひと塊になって外洋の方へと向かっている。それを見て、俺が小学生の頃、母と父と弟と妹と俺、家族全員でグラスボートに乗り、海中を泳ぐ魚を飽くことなく眺めていた記憶が、ふと蘇ってきた。


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