キッシュが冷たくなるまえに 第83話 仕込み
ミカさんと一緒に厨房に入ったらちょっと煙のにおいがしたが、酔っていて気のせいなのかもしれない。僕達の気配に気づいたはるかさんは洗い物の手を止めて振り返ると、「お疲れ様です翔太さん」と元気よくあいさつをして、作業台に置かれたステンレス製のバットに目くばせをして自慢げに笑った。僕はなんだろうと思って視線の先のバットに目をこらした。
「ええっと、これはもも肉で、こっちはささみかな、そしてネギマもある。これはレバーね・・・。もう串打ち終わっちゃったんだぁ」
僕は山積みにされた焼き鳥を見て残念そうにつぶやいた。
「串打ちってさ、やってると無心になって、ストレス解消になるんだよねぇ・・・。ブスっと串が肉に刺さっていく感じがさ」
いかにも「串打ちをやる気満々でした」とアピールするために串を打つジェスチャーをして、残念そうにつぶやいたが、正直こんな酔いが回った状態で串打ちがまともにできるなんて訳はないので、言葉とは裏腹に心の中ではラッキーとガッツポーズをとっていた。
「男は無心に何かすることで、ストレスが解消できる生き物なのかもね。私達女は、ランチが終わった後から二人で鶏肉を切って、打ち始めて、もしかして私達カフェをやるより焼き鳥屋のほうが儲かるかもしれないよねって二人でゲラゲラ笑いながら串打ちしてたのよ。楽しかったわぁ」
ミカさんはそう言って、はるかさんとアイコンタクトをとると、昼間の串打ちの事を思い出したようで、二人そろって吹き出すように笑い始めた。
「そんなに楽しかったなら、僕も誘ってくれたらよかったのに・・・」
僕の小さなつぶやきは、ミカさんとはるかさんの笑い声に完全にかき消されてしまった。
「あれも準備してあって、既に火もおこしてありますよ」
はるかさんは手を拭き終えてコンロを指さすと、その上には珪藻土で作られた丸い乳白色の卓上式の七輪が置いてあり、うっすらとした白い煙が換気扇に吸い込まれている。なるほど、さっきのにおいはこれっだったと納得した。炭の煙で燻されるので、香ばしい香りが隠し味になる。炭だけじゃなく珪藻土にも遠赤外線効果があるので、焼き鳥の表面はカリッと、中はジューシーに仕上がるのは間違いない。
「みなさん手抜かりがないですなぁ・・・」
仕込みに参加出来ずに置いてけぼりを食らって手持無沙汰な僕は、あなた達何をそんなに張り切ってるの?と若干の皮肉を込めてつぶやいてはみたが、この浮かれポンチな二人にはこの皮肉は届いているのだろうか?一応二人の仕事ぶりに感心をしている風体を取りつくろって、腕を組んで小さく頷いみた。
「天気もいいし、暑くも寒くもないこんな夜はビービーキューですよBBQ。この七輪を外に出してテラスでBBQをやるんですよ、いいアイディアでしょ?夜のB・B・Q」
なんでバーべキューと言わずにビービーキューと呼んでいるのかよくわからないが、確かにそう言った方が高揚感が増す感じがするのは確かだ。はるかさんの声が上ずっていて、古いミュージカル映画の主人公のように、今にもスキップして歌いだしそうな感じがする。ふわふわと浮かれていて、地に足がついていなくてどこかに飛んで行きそうだ。
「幸いここは商業地で住宅地からはちょっと離れているから、煙の苦情は出ないと思うし、騒がしくしなかったらきっと大丈夫よ。私達飲食業の人間は、土日が休みじゃないから友人に合わせてBBQなんかできないじゃない?週末のBBQなんて夢なのよ夢。ほんの一時でもいい、ささやかな幸せを嚙みしめたってバチはあたらないと思うのよ」
とミカさんは見逃してくれとでも言いたそうな懇願した瞳で僕に訴えかけた。まぁ、ミカさんの気持ちはわからんでもない。とりあえず僕に出来ることは、頷いて共感したフリをすることだろうと思い。僕はとりあえず大きく頷いておいた。
「BBQかぁ、僕もここ数年は自宅以外ではしていないなぁ」
ミカさんに共感したふりをするために必死に絞り出した言葉は、意外にも真実で、たしかにそうだ、友人達としたBBQっていつだろうと、僕は酔った頭でぼんやりと考える。だんだんとスケジュールが合わなくなったり、結婚や子供が生まれて生活のステージが変わってしまって逢えなくなってる友人がほとんどで、多分10年近くはしてないのは確かだ。
「翔太さん家は郊外で、まわりに家がほとんどないから、隣人に気にせず出来ていいですね。私の家はマンションで、家でBBQなんて絶対無理なので、こんな機会でもなければBBQなんてすることがないから、今晩は思いっきり楽しみますよぉ、ねぇミカさん」
「夜にBBQなんて、背徳感があって最高じゃない。しいて言うと、真っ昼間にラブホの入り口のカーテンを車でくぐるぐらいの背徳感かな?」
ミカさんがいたずらっ子のように笑って、小さな舌をペロッとだした。
「ミカさん、もう飲んでるんですか?いつものミカさんとは違う・・・」
はるかさんの言葉にピースサインを出したミカさんは「実はパスティスを少々・・・」と答えてまた笑った。するとキャッシャーの方から呼ぶお客さんの声が聞こえて、ミカさんは笑顔をシラフのような真顔に戻してキャッシャーにすっ飛んでいった。