キッシュが冷たくなるまえに 第72話 ドライマティーニ
客がドアを開けて入ってきたとわかったバーテンダーは、急いでカウンター内にしゃがんで、バックバーの下にあるアンプのボリュームを絞って、
カウンターからひょっこり顔を出すと僕と目が合った。
「なんだ、翔太くんか、久しぶりだね」
この店バー、アルカディアの三代目のバーテンダーで、僕の高校の同級生でもある吾郎君は、ほっとした表情で微笑んだ。
「相変わらず音楽を爆音で聞くのが好きだねぇ・・・」
そう言って僕はカウンターの右から二番目の席に腰かけた。この店はスツールではなくソファータイプの座席を採用している。個人的にはスツールのほうが好みなのだが、この界隈で遊んでいた昭和の旦那衆は、どうやらゆったりと座って酒を飲みたかったらしい。赤褐色に輝くのマホガニーのカウンターを、天井からスポットライトのように照らしている。同じくマホガニーのバックバーは、ミカエルのバックバーのように内側が鏡張りになってキラキラしている感じはなく、ミカエルのカウンターが「女の空間」だとすると、こちらは派手さを控えめにして「男の空間」の風情が漂っている。アルカディアとはギリシャ語で「桃源郷」の意味らしく、ここの地域はかつて赤線もあったまさに男の桃源郷で、僕はぴったりな名前だと思う。冷たいおしぼりが僕の前に置かれ、僕は手を拭きながらバックバーをざっと眺めた。
「じゃぁ、何飲もうかな・・・。とりあえずマティーニください」
吾郎君は頷いてバックバーの方へ振り返えると、ジンのボトルが固まっている一角を眺めている。
「オリーブは入れなくていいんだね?そして辛口だよね?」
吾郎君は眉毛にかかる長めの細い髪を気だるそうにかき上げながら、念を押すように聞いてきた。細身で高身長、白いシャツに棒タイ、黒いベストのTHEバーテンダーのユニフォームがよく似合う。
「もちろん、あとボタニカルを使うのだけはやめてよね」
ジンが置かれている一角に目をやると、今までジンの香りづけに使われたことのないハーブを使ったことを売りにしているボタニカルジンのボトルが増えている。ジュニパーベリーやコリアンダーといった基本の原料はおさえつつ、薔薇や聞きなれない植物を入れて個性を強調していて、日本のメーカーの物は、お茶やゆずなんかも入れて独特のフレーバーを醸し出している。
「わかったよ。翔太くんはジンをストレートで飲むくらいだから、かなりのジン好きだと思うけど、ボタニカルジンの出始めた頃から大嫌いだったでしょ?図星かな?」
吾郎君はその一角にあるスコットランド産のバラとキュウリのフレーバーが特色のジンのボトルを持ち上げて、僕の顔を見てニヤリと笑った。そして冷凍庫から一番オーソドックスなジンのビーフィーターのボトルを、バックバーからベルモットを取り出してカウンターの上に置いて、ミキシンググラスに氷を入れ始めた。
「その通り図星。いろいろ飲んではみたんだけど、正直美味しいと思ったことがないんだよね・・・。なんかカレーにさ、薔薇の香りとかゆずの香りが入っていたら変じゃない?」
吾郎君はロバートグラスパーの曲が聞こえなくなるくらいの大声で大笑いをした。
「なるほど、さすが元料理人、わかりやすい例えだね。ちなみに僕も美味しいとはこれっぽっちも思ってない。でもこちらも商売だからね、気がついたらこんなに増えちゃってさ」
吾郎君はそう言うと、ミキシンググラスに水を入れて、バースプーンでクルクルと中の氷を回し始めた。長くて細い人差し指と中指が綺麗に回転している。カウンターに座った女性達が、うっとりとして吾郎君の指先を眺めているのをよく見かけるが、男性の僕でさえ惚れ惚れとする。
「しかし、なんで日本製のボタニカルジンって種類が増えてるの?」
「ほら、今日本じゃクラフトウイスキーがブームじゃない?ウイスキーってさ、原酒を作っても、最低3年は木の樽で寝かさないといけないんだよ。その間蒸留所は収入はないよね・・・」
「もしかして、その間に収益化できるものを作るとなったらジンがいちばん手っ取り早かったってこと?」
「その通り、焼酎でもいいと思うんだけど、焼酎の市場は飽和状態だし、ジンのほうが競争相手が少ないんだろね。あと海外でボタニカルジンが流行り始めたから、うまくその波に乗っかったってことかな」
吾郎君はそう言うと、金属製のストレーナーをミキシンググラスにかぶせて、中の水を捨てている。
「いったいどんな客が注文してるの?」
「だいたい、僕等ぐらいの若い世代が注文するね。年配のジン好きは見向きもしないかなぁ・・・」
一滴も水滴が残らないように吾郎君は切るようにミキシンググラスを振って、何かを思い出したらしく話を続けた。
「このあいださぁ、同世代の酒の強い男性がボタニカルジンを飲んでみたいって言ってきたので、せっかくなのでストレートかロックで召し上がったらいかがですか?と提案させていただいたんだけど、ロックで一口飲んだらすっごい微妙な顔をされて、氷が溶けて薄くなるのを待って無理やり飲み干して帰って行かれたなぁ・・・」
吾郎君はそう言って遠い目をすると、マティーニを作る作業に集中し始めた。ジンをミキシンググラスに注ぎ込み終えると、神経を研ぎ澄ませてベルモットの注ぎ口に集中する。ほんの数滴だけベルモットを垂らすと、アンゴラスチェラ・ビターズを軽く振り入れて、再度バースプーンでクルクルと回し始めた、バーテンダーがカクテルを作っている姿は、何か神前の儀式を見ているようで、思わず息をとめて凝視してしまう。バーテンダーは神官で、神と神から送られてきたメッセージを僕達愚民に届ける仲介者なのかもしれない。回している指を止めて、カクテルグラスに出来上がったマティーニを注ぎ込む。レモンピールを絞ると、冷えた透明の液体の上にかすかな柑橘の香りが移り、表面にうっすらと油が浮かんでいる。
吾郎君はコースターを置いて、出来上がったばかりのマティーニのグラスをそっと置いた。神からのメッセージを愚民に届けるという今晩最初のバーテンダーの仕事は終わった。
「どうぞ」
吾郎君の優しい声がカウンターに響くと、僕は軽く会釈をしてこぼさぬようにゆっくりと注意深くグラスを口元に近づけた。ほのかにレモンの香りが立ち上がってくる。背筋を伸ばして一口啜ると、冷やされてトロトロとになったジンが舌が痺れさせて、唾液があふれだす。ジュニパーベリーの香りが口内に広がると、その鋭い香りはやがて鼻腔をぬけていき、最後にかすかにベルモットの香りがして消えていく。スタッフドオリーブを入れないのは、あの塩っ気が邪魔で、ジンの味ストレートに味わうのに邪魔だから。なぜかジンをストレートで飲むより、ベルモットがほんの少量入っているマティーニのほうがジンの味をより味わうことが出来るのかわからない。たぶんバーでバーテンダーが自分のために作ってくれる神官の儀式が、レモンピールの香りのように薄っすらとしたプラシーボを僕の心にかけて美味しく感じているだけなのだろう。マティーニはよく「カクテルの王様」なんて呼ばれるが、神社で飲む「お神酒」に近いと愚民の僕はそう思う。今晩神から愚民へ送られたメッセージは「飲みすぎんなよ」だと思いながら僕は二口目を啜り始めた。