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かつて、上海には三つの競馬場があった。(1)短期間で二回も引越し!?

最近、かつて上海にあったという競馬場のモノクロ写真をトップ画像に置いた記事を書きました。

その後、ちょっと上海の競馬場についてネットで色々調べていて、日本語のWikipediaには書いてない情報もあったりしたので、五月雨式ではありますが書き出してみます。

もしご興味のある方いらしたら、ご覧になってみてください!

上海競馬場は3つあった?


まず、私も知らなかったのですが、上海の競馬場は、今の跡地・人民公園にできるまで2回移設されていたそうです。

▼1850年、英国人が結成した「上海跑馬総会」により、現在の南京東路・山西南路・河南中路で囲まれた区域に建設された。この競馬場は、「老公園(オールドパーク)」と呼ばれた。(下記地図①)
▼1854年に最初の移設。現在の南京東路・浙江中路・西藏中路で囲まれた区域に移された。「新公園(ニューパーク)」と呼ばれた。(②)
▼1862年に二度目の移設。今の人民公園・人民広場の場所に移された。(③)

以下は、移設の変遷図。

Sohuドットコム記事より転載

モノクロ地図でわかりにくいかと思いますが、東に流れるのが黄浦江で、川沿いが観光地として有名なバンド(外灘)です。

現在の地図で見るとこんな感じです。

バンド(外灘)からかつて競馬場のあった人民公園までルートを引いてみると、だいたい2kmです。

この狭い区域の中で、ずいぶん短い期間に引っ越しを重ねたようですが、それには理由があったようです。


土地高騰に目をつけ、最初の移設。


1850年に最初の競馬場「老公園」を建設後、僅か4年で数百メートル西に引っ越した背景には、地価の高騰があったようです。

81アール(8100㎡)の土地が約20倍で売却できたそう。

まさに不動産バブルですが、儲けたのは地元の上海人ではなく、イギリス人だったのですが。

ちなみに81アールと言われても、私はピンとこないのですが、地図で見るとかなり狭いのは一目瞭然。

この狭さを物語るエピソードとして、コースが狭すぎるので、騎手が馬をコースの外の道まで持ち出して追ったことが由来で、道のことを現在も使われる「馬路(マールー)」と呼ぶようになったそうです。

なお、2つ目の競馬場の面積は170アールと倍以上で、跑馬総会は強引に農民から土地を買収した、とのことでした。まさに地上げですね。


二度目の移設も大儲け。


さらに8年後の1862年には二度目の移設をすることになりますが、2つ目の競馬場「新公園」の土地も、約10倍で売れたようです。また大儲け。

さぞ馬券の発売でも儲けているのだろうと思ったのですが、1870年代半ばまではスポーツ色が色濃く、馬券の発売はなかったそう。

そして、レースの優勝者にはシャンペン(中国語で「香槟酒シアンビンジウ」)が贈られ、その名残りで、のちに馬券が販売されるようになると、馬券のことを「彩票(ツァイピャオ)」、又は「香槟票(シアンビンピャオ)」とも呼んだそうです。

他にも、馬券が発売されてからの売上についてなどの情報もあったのですが、記事が長くなってしまったので一旦ここまでとします。

最後に、参考にしたサイトのURLを貼っておきます。


参考サイトURL

Sohuドットコムの記事(中国語)
https://www.sohu.com/a/798436773_121668715
かつての競馬場のみならず、上海市民憩いの地としてのその後の運動場の歴史などについても書かれています。競馬場変遷の地図や、写真もたっぷり。

Baidu百科の「上海跑马厅」ページ(中国語)
https://baike.baidu.com/item/上海跑马厅/3940708?fr=ge_ala
競馬場の歴史が詳しく書かれています。馬券売上情報なども。

日本語のWikipedia「上海レースクラブ」ページ
https://ja.wikipedia.org/wiki/上海レースクラブ

上海ビジネスフォーラム「上海租界は、競馬場と共に発展した。」
https://sbf.asia/useful/history/02.html
競馬場があった租界の成り立ちについて、詳しく書かれています。

あと、偶然発見したのですが、「競馬切手」に特化したホームページを拝見しました。上海以外にも、新京(長春)やハルピンにあった競馬場の観光絵はがきを紹介されていて、多くの競馬場の絵はがきを見ることができました。(個人の方が運営されているHPなので、リンクは控えました。)

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