かつて、上海には三つの競馬場があった。(4)イギリス人が描いた「老公園」。
「かつて上海に競馬場があった」シリーズ、個人的な興味がまだ続いています。
この記事で4つ目なのですが、過去3つの記事のタイトルに統一感がなかったので、タイトルを変えさせて頂きました。
メインタイトルを「かつて、上海には三つの競馬場があった」として、過去三回分に以下のサブタイトルをつけました。
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1つ目の競馬場「老公園(オールドパーク)」、2つ目の競馬場「新公園(ニューパーク)」について書き、次はレースクラブの建物も現存する3つ目の競馬場「上海跑馬廳(跑馬総会)」について書きたいなと考えていました。
それで色々調べていたところ、個人的にいちばん気になっている「老公園」について、その形状を窺わせる情報が見つかりました。
そこで、今日の記事は、もう一度「老公園」について書きたいと思います。
イギリス人が描いた「老公園」
bilibiliという動画サイトに「黄河路和老上海跑马场有什么关联?(黄河路と昔の上海競馬場ってどういう関係?)」という動画が上がっており、イギリス人が描いたという「老公園」を含む周辺を描いたという絵が出てきます。
Park & Race Groundという部分が競馬場です。
このグラウンドは、競馬のためだけではなく、「Fives」というスカッシュに似たスポーツや、他のスポーツにも使われていたそうです。
この絵は東側を下にして描かれているので、左に90度倒すと地図として見やすいです。
競馬場(運動場)は、骨付きの鶏モモ肉のような形ですね。
この形、前に紹介した、今のところ私は一枚しか見つけられていない写真とも、形状は近いのではと思います。
絵のモモ肉部分が、写真の手前、絵の足先部分が、写真の奥と見ます。
この写真、どこから撮影したのかが気になっていたのですが、絵と照らし合わせてみると、西側の少し高い建物から撮ったものと思われます。
ただ、ちょっと、信憑性に疑問。
ただ、この絵なのですが、英国租界の中に描かれており、競馬場が現在の「河南中路」の東側にあったと解説されているのが、今まで調べた情報と齟齬があります。
今まで見た資料では、いずれも「老公園」は河南中路の西側にあった、というものだったのですが・・すっきりしないです。
悩ましいのですが、この鶏モモ肉の形に似た運動場が、元々イギリス租界の中にあった、という可能性はあるかもしれません。
租界の設置は1845年11月です。
租界の中にまず運動場を作り、1850年になり、河南中路を挟み、西側に運動場を移したのかもしれません。
絵を描いたイギリス人が誰なのかわかりませんが、さすがに西側にある競馬場(運動場)を東側に描いてしまうほどのミスはあり得ないと思うのですが・・。
前回、以下赤枠のあたりをうろうろしていたのですが、河南中路の向こう側にも競馬場、というか運動場?があったのかも・・。
また現地に行ってみてもいいのですが、地図から見ても、何の痕跡もないだろうなぁ。。
老公園の位置について。(後日、色々調べてみての追記となります。)
「老公園」の位置ですが、動画内の「河南中路」注記が間違っていて、正しくは「西蔵中路」の可能性が高そうと考えました。(つまり、やはり「河南中路」の西側にあった。)
根拠としましては・・。
①イギリス租界の西端は、1845年に租界が設置された時点では「河南中路」だったものの、1848年にはさらに西側、現在の「西蔵中路」がある地域まで拡張されたようです。とすると、この絵は1853年に描かれたそうなので(その情報も同じ動画内の説明なので心許ないのですが・・)、動画には「西蔵中路」と注記をつける方が妥当な筈です。
②また、英国租界の西端に沿っている地図上の「Creek」は「泥城浜」という小川なのではと思いました。この小川は、「洋渓浜」という黄浦江から西(市内)に入ってくる支流と、英国租界の北を流れる蘇州河を繋ぐ小川で、「西蔵中路」と並行して流れていたそう。この「泥城浜」が埋め立てられ道が広くなり、統合され「西蔵中路」となったようです。
この「泥城浜」ですが、そもそもは租界を守るために工部局が掘って作ったものだそう。
以下は、絵はがきと思われますが、西蔵中路と「泥城浜」。
「泥城浜」が埋め立てられ、西蔵中路として統合された後がこちら。
③そして、英国租界と、その南にあった中国人の居住エリア、城壁に囲まれた「上海県城」の西端沿いには、ほぼ並行して西蔵路(≒泥城浜)が走っていました。
こうして見ると、やはり動画内の「河南中路」注記に惑わされてしまった、と考えるのが妥当そうです。
この「上海県城」は、現在の地図で見ても、その輪郭が確認できます。
以下地図の右下、観光地としても有名な「上海城隍庙」や「豫園」を囲む、上半分をカーブする人民路と、下半分を中華路で囲まれたエリアです。
すぐ西を西蔵路が南北に走っているのも確認できます。
・・ということで、「老公園」の位置をめぐる混乱の整理をしてみました。
実は、まだ、このイギリス人の地図で見ると、ちょっと西蔵中路に近すぎないか?という疑問もあるのですが、何しろ絵なので、縮尺とかも正確ではないでしょう。
しかし、追加で調べていると興味が広がっていきます。
ますます収拾がつかなくなりそうですが、租界の拡張に付随する物語、中国人が住んでいた「上海県城」について、興味が広がりました。別記事として書くかもしれません。
追加で調べる中で参考にしたページを付記します。
いずれにせよ、狭かった「老公園」
ということで、本日は調べていてやや後退感もある記事になってしまいました。
ただ、個人的にはこういう混乱も楽しみながら理解を進めています。
最後に、「上海租界研究」の中で、「老公園」の狭さを物語るエピソードが見つかりましたのでご紹介します。
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「老公園」では、1850年に競馬のレースが開催されたようなのですが、コースが狭いため最大でも7頭立てが限界だったようです。
ある日の開催では、予選が3レースあり、勝ち馬が決勝に進む権利を得たそう。このことから想像できるのは、決勝は3頭立てで行われた。
つまり、やはりコースが狭かったことがわかります。
あとは、その日のうちに予選、決勝とあったのだから、現代競馬のようなタフなレースではなかったことが想像できます。(今の日本競馬では、どんなに続けてレースに出ても一週間は間隔を空けます。)
次回は一応、3つ目の競馬場について調べて書きたいと思います。