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《大学入学共通テスト倫理》のためのゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル

大学共通テストの倫理科目のために哲学者を一人ずつ簡単にまとめています。ゲオルク・フリードリヒ・ヘーゲル(1770~1831)。キーワード:「弁証法」「テーゼ(正)、アンチテーゼ(反)、ジンテーゼ(合)」「止揚(アウフヘーベン)」「絶対精神(世界精神)」主著『精神現象学』『法の哲学』『歴史哲学』

これがヘーゲル

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哲学界の重鎮らしい重々しい印象です。

📝ヘーゲルと言えば弁証法。その弁証法って何?

矛盾は、それが矛盾でなくなるようないっそう高次の段階に移行することによって克服される。(略)この新しい段階でふたたび自己否定による矛盾が生じ、さらに否定の否定が行われて、また一段と高い次元に進む。(中埜肇『ヘーゲル 理性と現実』(中公新書)から引用)

ヘーゲルの弁証法は、上方へ向かう自己発展の運動の論理だと言えます。あるものが矛盾と出会い、それを克服することで高次の存在となる。人間って確かにそういう感じで成長していくなあなどと感想を抱いたりします。

📝この弁証法のアッパーな運動はけたちがいです!

ヘーゲルの考える絶対者とは決して有限者に対立するものではない。(略)有限者の変化を通じて絶対者は自己を実現してゆくのである。(『世界の名著 ヘーゲル』(中央公論社)、岩崎武雄「ヘーゲルの生涯と思想」から)

これがヘーゲルの「絶対精神」。(人間の)精神が有限の現実を全て含み、それ自身宇宙的な無限の広がりをもっていく。ヘーゲルは精神(の完成)を無限のスケールで構想しました。「絶対知」とか「世界精神」とかも呼ばれます。すごい命名&スケールです。

📝無限に上昇する弁証法を図化しましょう!

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「テーゼ(正、即自)」が「アンチテーゼ(反、対自)」と統合され、「ジンテーゼ(合、即自=対自)」になる。この上昇の運動を「アウフヘーベン(止揚・しよう)」と呼び、この全体の構成をヘーゲルの弁証法と呼びます。否定を媒介とするこの運動が延々と上昇が続くと「絶対精神」へと至ることになります!

📝なぜヘーゲルはこの「精神」に無限の信頼を置いたのか?

◎一つはこれまでの文明の歩みから

もろもろの国家、民族、個人は、世界精神のこの仕事において(略)出現する(『世界の名著 ヘーゲル』(中央公論社)、「法の哲学」(赤澤正敏訳)から引用)

個人たちが集団を形成し、さらにその集団が国家へと成長していく。ヘーゲルは「文明は進歩している」という発想の中に、「世界精神」の実現過程を見ます。この『法の哲学』においては、個人たちは「家族」→「市民社会」→「国家」の三段階を経て、「人倫の最高形態」という、よりよい秩序が実現されていくと考えています。意外と常識的に分かる話。

◎もう一つはヘーゲルが生きた時代から

国家革命(略)は、それが繰りかえして行なわれる時にはじめて、世人に納得されるものであることが、これを見てもわかる。この意味で、ナポレオンは二度、敗北する必要があった(ヘーゲル『歴史哲学 中』(武市健人訳、岩波文庫)から引用)

ヘーゲルが生きたのは、フランス革命が起きたり、フランスで軍人から皇帝ナポレオンが登場したり、既成の権力から個人が解放されていく時代です。ヘーゲルはこの『歴史哲学』の中で「世界史は自由の意識の進歩である」と言いました。これも私たちが「自由」を歴史の必然と考えるような発想と同じで意外と常識的です。この人類が定められた方向に発展するという考え方を「歴史主義」と言います。ちなみに、ナポレオンはヘーゲルのアイドルで、町で見たときに「世界精神が馬に乗っている!」と感激したそう。

◎そして何より観念論からつかんだ「精神」の定義から

真なるものは全体である。しかし全体とは、ただ自己展開を通じて己を完成する実在のことにほかならない。(『ヘーゲル全集4 精神の現象学 上巻』(金子武蔵訳、岩波書店)から引用)

世界は認識する行為なしに存在しない。だから、世界の全体というものも「全体を認識する認識」がないかぎり存在しない(というか二つは同じだ!)。こんな観念自体を真であるとする「観念論」をベースにして、ヘーゲルの哲学が組み立てられています(ヘーゲルはドイツ観念論の完成者と呼ばれます)。ところで、精神を全体まで広がる可能性とみるところは、人間に対してすごくポジティヴだと思います。

📝ヘーゲルは人間の精神に無限大の可能性をみた哲学者です!

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画像は無限のマークです。ヘーゲルって本当にいいですねとまとめつつ、現代のヘーゲルについてのコメントをチェックします。これが激論です!

📝ヘーゲルへの20世紀以降のコメントを紹介します!

ヘーゲルの意図はあらゆる矛盾を意のままに操作することにある。一切の科学のみならず、あらゆる合理的論証の終息を意味する立場を擁護するために、ヘーゲルは、「あらゆる事物は即自的には矛盾である」と主張する。彼は合理的論証およびそれとともに科学や知性の進歩を停止させようと欲しているから、矛盾を容認しようとするのである。(カール・R・ポパー『開かれた社会とその敵 第二部 予言の大潮 ヘーゲル、マルクスとその余波』(小河原誠・内田詔夫訳、未來社)から引用)

ヘーゲルは論理的でないばかりか、論理的な知性も破壊するというレベルでディスっています。そんなヘーゲル全否定のポパーですが、彼は「定められた一方向に発展する」というヘーゲルの一元的な歴史主義(ポパーの用語では歴史法則主義)を一番有害視しているもよう。「即自」は「テーゼ」の言い換えと説明されるヘーゲルの哲学の用語です。「テーゼ(即自)」は、それの矛盾として否定してくる「アンチテーゼ(対自)」を否定(否定の否定)をして、「即自=対自」という「ジンテーゼ」になるという話。

世界精神は、まとまりを持った個々の主体の関心の総体とは別ものなのだから(略)世界精神の理性が非理性的でしかないのは、今に始まったことではない。(略)特殊なものは何一つ我慢できないという者は、もうそれだけで自らの特殊な形で支配する者であることを暴露している。(テオドール・W・アドルノ『否定弁証法』(木田元、徳永恂、渡辺祐邦、三島憲一、須田朗、宮部昭訳、作品社)から引用)

ここではヘーゲルの世界精神は、個人を一元的に支配する「全体主義」の象徴とみなされています。アドルノはヘーゲルとヘーゲル主義の構成を「この構造は現実に忠実だった」と言う。つまり、彼は現実はいつでも全体主義に進んでいると感じ、それを阻むためにヘーゲルの思想と格闘する必要を説いています。

ヘーゲルを「観念論者-一元論者」だという一般的なイメージはまったく間違っている。ヘーゲルの中に見出されるのは、差異と偶然に対する史上最強の肯定である。(スラヴォイ・ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』(鈴木晶訳、河出書房新社)から引用)

これは上の2つと真逆の主張。作者はジャック・ラカンの精神分析の立場からヘーゲルを大肯定しています。個人の精神のように、いつでも「一元」で「全体」となっている原理を否定してもはじまらないし、その原理を詳細に扱う中でポジティヴなものを探そうとしている。ここでヘーゲルは人間の原理に再昇格しています。ヘーゲルは現代こそ真剣に論じられている重要哲学者です!

以下は小ネタを!

ヘーゲルは将来の妻マリーにこう書いた。「私に対するあなたの愛とか、あなたに対する私の愛とかいうように分けて言うことは、区別を持ちこむことによって、私たちの愛を分割することになります。愛は私たちの愛でしかありません。」。素敵な愛の弁証法である。娘さんに愛を語るのに、愛の弁証法的統一をまじめに語る文体に純情が感じられます。それはそうと、この愛はヘーゲルの哲学を分かりやすく伝えます。愛のように、元は別々であったものを一つのものに変え、そうすることが「当然の使命」であるようなもの。これがヘーゲルの弁証法的統一のイメージです。中埜肇『ヘーゲル 理性と現実』(中公新書)から引用しました。

哲学者ヘーゲルの主著は『精神の現象学』。この中の「主と奴の弁証法」という論は有名。自己意識が不在の主人に奉仕するという奇妙な内容だが、それをそのまま物語の設定にしたものが、寺山修司の演劇『奴婢訓』である。この「主人と奴隷の弁証法」は名前からして大分ゴスですが、「承認をめぐる生死を賭けた戦い」に敗北したあと、「死という絶対主人」に奉仕する「奴隷としての自意識」というのがもうスゴイです。哲学の著作の中で一番ゴスでしょう。人間の精神がそうして誕生すると想像するだけで何ともいえない気分になります。ところで、『奴婢訓』は、ヘーゲルのこの精神の自己展開論に「不在の脚本家に操られる役者のドレイ状態からの解放(は可能か?)」という創作論を重ねていると思います。






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