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ことばは政治的 第4回 反発と変革

新たな表現の模索

 2017年以降、フランスで「包摂的書記法」(écriture inclusive)がたびたび話題になっています。これは、包摂的な表現を模索する工夫の総称といえます。すでに説明した職業を表す名詞の女性名詞化などもこれに含まれます。公式な方法が存在するわけではありませんが、多くの研究者や機関が「包摂的書記法」や「包摂的言葉遣い」といった表現方法を提唱しています。
 たとえば、フランス政治学会の雑誌の投稿規定には「包摂的書記法」の具体的な方法が記載されています。男女両方を表す場合、candidat(「候補」の意)をle candidat ou la candidate(直訳すれば「男性候補あるいは女性候補」の意)のように男女を併記するか、les candidat.e.sと一つの語の中にピリオドを使用し男女を併記するか、les personnes candidates(直訳すれば「候補の人たち」の意)のような通性的な表現を使用するかのいずれかの方法を採用するよう提言しています。

人間か? 男性か?

 少しだけ、英語の話をさせてください。トールキン(1892-1973)の『指輪物語』(1954-1955)で、アングマールの魔王という登場人物は「男の人間の手によって殺されることはない」という予言を受けます。その際に “not by the hand of man” という語が使われるのですが、人間の女性であるエオウィンに殺されるという結末を魔王は迎えます。つまり、manは人ではなく、男を指していたことになります。映画『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』でもこのシーンは見られます。アングマールの魔王が “No man can kill me. Die now” と勝ち誇ると、エオウィンは “I am no man” と言い放ち、魔王を刺し殺します。Manが人間を指していたのかと思ったら、実は男性を指していた、という巧みな物語の運びとなっています。
 フランス語のhommeも、英語のmanと同様の性格を有しています。フランス政治学会は、総称的な意味の男性形を避けるよう推奨し、具体例として人権を意味するdroits de l’hommeを挙げています。英語のmanと同様に、hommeは人間を指すこともありますが、男性を意味する場合もあります。一方でfemmeは女性を意味し、人間全般を意味することはありません。こうした非対称性を克服するため、人権をdroits humainsと言いかえることが学会では推奨されており、実際多くのメディアでもこのように表現が改められています。
 Droits de l’hommeという表現は問題だ、という考えは決して新しいものではありません。1789年に「人間と市民の権利宣言」(Déclaration des droits de l’homme et du citoyen)、いわゆる「人権宣言」がフランス憲法制定国民議会に採択された当時から、フェミニスト作家のオランプ・ド・グージュ(1748-1793)はこれを問題視していました。そして、1791年に「女性と女性市民の権利宣言」(Déclaration des droits de la femme et de la citoyenne)を発表するに至りました。こうした歴史を知ると、いかにフランス語に女性を包摂することが古い課題なのかがうかがえます。

図 1 オランプ・ド・グージュ『女性の権利—王妃に宛てて』に収録された「女性と女性市民の権利宣言」の冒頭

反発、そして確実な変容

 学会やフランスの政府系機関、北大西洋条約機構(NATO)などでことばにおける包摂性が重視されつつありますが、実際には反発も少なくありません。アカデミー・フランセーズは2019年に職業に関して女性名詞化を認めるようになったものの、「包摂的書記法」はフランス語を「死の危機」に追いやると正式に反対意見を発表しています。
 アカデミー・フランセーズは作家や学者により構成された特殊なエリート組織ですが、こうした反発は保守政治家や保守的な人々の間でごく一般的といえます。女性の職業を女性名詞で表すことに違和感は少ないものの、メールの文面で表現を改めるなど、日常の中で変革が起きることは精神的な負担や労力につながるため、ある程度の反発は仕方がないともいえるかもしれません。私自身、慣れ親しんだ、身体に染み付いた表現を改めることを難しく感じています。しかし論じてきたように、アカデミー・フランセーズなどの声明をよそに確実にことばは変わっています。
 それでも文法上の性を廃止すべき、という話ではない点でこのコラムを結びたく思います。「ことばは現実世界を形成する」と主張するフェミニスト作家のモニック・ヴィティッグ(1935-2003)も、「最終的な解決法は文法上のジェンダーを廃止すること」と認めつつも、それは一人の作家によってできることではなく、合意に基づかなければならないとし、そのような変化が生じれば「人間の表現のあらゆる面に影響する」と慎重な立場を示しています。言語学者のガイ・ドイッチャーは「ジェンダーが言語から詩人への贈り物であることはいうまでもない。(中略)シャルル・ボードレールの『L’homme et la mer(人と海)』の英語訳はいかに見事でも、ボードレールが『彼(人)』と『彼女(海)』のあいだに喚起した激しい愛憎を再現できる見込みはない」と『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』(早川書房)で述べています。文法上の性が社会の現実や一人ひとりの創造力とどのように関わっているのかを考えながら、ぜひ引き続きフランス語に関心を寄せていってください。

大嶋えり子(おおしま えりこ)
慶應義塾大学経済学部准教授。
東京都出身。博士(政治学)。早稲田大学政治経済学術院助手、金城学院大学国際情報学部講師を経て現職。慶應義塾大学法学部法律学科を卒業後、証券会社に勤務。退職後、早稲田大学大学院政治学研究科に進学し、修士課程でフランスの極右政党の研究に取り組む。博士後期課程ではフランスの移民政策と植民地の記憶をテーマにした博士論文を執筆。主著に『ピエ・ノワール列伝』(パブリブ、2018年)、『旧植民地を記憶する』(吉田書店、2022年)、大嶋えり子・小泉勇人・茂木謙之介編著『遠隔でつくる人文社会学知』(雷音学術出版、2020年)がある。

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