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傷ついた遺体を見るべきか

はじめに

傷ついたご遺体を見るべきかについては、意見が分かれるところだと思います。警察や検察、葬儀業者の人がはっきりとこの問いに答えることはありません。なぜなら、ご遺体を「見る、見ない」ことの影響によるこれからの遺族の人生に責任を持つことができないからです。警察署によっては、大きく傷ついたご遺体に対しては「傷ついたご遺体は見ずに綺麗なままの故人を覚えておきましょう。」と見ないことを勧める場合もあります。見ないことを勧める理由には、傷ついた遺体が脳裏に焼きつき将来的な精神的健康に大きな影響を及ぼすことを防ぎたいという思いからだと考えます。大切な人が亡くなってからご遺体を見るかどうかを決める時間は決して長くありません。感情や考えが頭の中で嵐となり混沌とした中で時間は苦痛の中で過ぎ去っていきます。決めなければなりません。

私は見た方が良いということを少し強い意見で書き進めます。しかし、これを読んでる人には見ないという選択をした人が居られると思います。綺麗なままで故人を覚えておくために見ないという選択をしたこともすごく意味があると思います。どちらが正しいわけでないことを理解しています。

私は見ました

私は実際に見ました。これは警察官から「綺麗なままの故人を覚えておきましょう。」と言われる前から決めていたことでした。最後の姿を見ずにお別れはできないという思いが強かったからです。その後にPTSD(心的外傷後ストレス障害「精神疾患に関しての説明は他の記事で書きます。」)など精神的な病気になる可能性があるとしても火葬してからではどうにもならないと考えたからです。遺体はかろうじて骨格から私の家族だと認識できる程度のものでした。体のほとんどは包帯に覆われて隠された隠された状態でした。それでも見て良かったと思っています。家族の一人に医療関係者がいたので、その一人が最初に見にいきました。面影があるという話を聞いて残りの家族で遺体を見に行きました。ほぼ全ての体が包帯で覆われていました。おでこをそっと触りました。それから数年が経ち、家族で話し合いましたが見て後悔した人は誰一人としていませんでした。

見た方が良いと考える理由

犯罪被害者遺族が遺体を見るべきかどうかに関する文献は見つけることができませんでした。しかし、通常死と言われる老死や病死によるもので遺体に欠損や傷つきがないものには関連する文献があります。遺体を見ない場合や災害なので遺体自体を見つけることができない場合には「あいまいな喪失」につながる可能性があります。Boss(1999, 2002)は,「はっきりしないまま残り,解決する ことも,決着を見ることも不可能な喪失体験」を あいまいな喪失と定義し,「心理的には存在して いるが身体的には存在しない状態」と「身体的には存在しているが心理的には存在しない状態」の 2 つに類型化しました。後者は認知症の家族などが該当します。Boss, P. (1999). Ambiguous loss: Learning to live with unresolved grief. Cambridge, MA:Harvard University Press.Boss, P. (2002). Family stress management: A Contexual Approach. Second edition, Sage Publications.
この「あいまいな喪失」が人々の悲しみを長引かせたり、心的な不和を作り出すのではないか、故人との別れの受容の始まりを妨げる可能性を示す論文がいくつかあります。看取りに関する複数のマニュアルにおいても遺族とご遺体を会わせることを勧めています。子供に対しても「私たちの先生は子どもたちー子どもの「悲嘆」をサポートする本」において、ご遺体を合わせることの重要性について書かれております。「あいまいな喪失」は日本において東日本大震災の際に大きく注目されることになりました。東日本大震災では、大きく傷ついたご遺体をご家族にどのようにお会いさせるのかについて考えさせられました。犯罪性はないにせよ、大切な人を暴力的な方法で失うことになりました。

遺体確認時の遺族への支援 ―東日本大震災における遺族支援活動から―
https://www.jstss.org/docs/2024011000017/file_contents/TS10-1_4.pdf

東日本大震災『死亡告知・遺体確認における遺族への心理的ケア」マニュアル

https://saigai-kokoro.ncnp.go.jp/contents/pdf/mental_info_izoku_care.pdf

災害時の遺体管理
https://www.niph.go.jp/publications/saigaiji.pdf




遺体の状態から考える


ご遺体の状態はそれぞれの人で異なります。打撲の跡や切り傷、腕・足・体・頭部の欠損、場合によっては肉片となって形がない場合も考えられます。これらのことを考えて、見るかどうかを判断する必要があります。事件性がある場合には検視が行われます。そして、ご遺体と会う前に警察・検察の方から説明を受けることになります。その際には検視が終わっていると思われるので、一部または多くの部位が包帯で覆われた状態になります。説明の時点で損傷が激しい場合は見ないようにと説明を受けると思います。少しでもご遺体を見てからお別れがしたいと思っているのであれば、そのように警察・検察の方に伝え、どのような箇所がどのように損傷しているのか欠損しているのかを聞くことが必要だと思います。肉片の場合は難しくなると思います。次にその遺体が葬儀業者に渡されます。その時に死化粧(エンゼルケア)・エンバーミングをどのようにするかを話し合い、死化粧を行なったあとにご遺体とお会いする選択もできるかと思います。ここは注意が必要だと考えています。死化粧は打撲の跡や小さな切り傷を綺麗にするのには向いていると考えられます。焼死体や原型に大きな変形がある場合にはへこみなどに補填物で補う場合があります。死化粧を施す人の技術によって大きく異なります。そうなると、特徴が消えてしまい人形のように感じてしまう可能性が高まります。そのことを考えると葬儀業者が綺麗にしてくれる前に見ることも考える必要があります。私は、「あいまいな喪失」がその後の回復に大きな影響があると仮定するならば、人形のようになってしまった故人ではなく、少しでも特徴の残る故人を見ることが良いのかと考えます。大きな痛みがある場合に死化粧をしてもらう時には、生前の写真を見せてどの程度まで施してもらうのかの相談が必要かと思います。家族だけでなく故人の友達や恋人、子供、仲の良かった人などが訪れる場合には死化粧についてやどこまで包帯や服などで傷ついた場所を隠すのかを考えなければならないでしょう。葬儀業者の方は、体がバラバラになったとしてもそれぞれの位置関係を出来るだけ再現しようとします。腕が欠損している場合にはタオルなどを詰めて腕を再現してくれる場合があると思います。余裕はないと思いますが、全てお任せするのではなく少しだけでも相談することが良いと思います。

エンバーミング(遺体衛生保全)の意思決定が遺族の悲嘆に与える影響に関する社会心理学的研究一意思決定を巡る当事者間相互作用に焦点をあてて一

https://www.jard-info.org/wp/wp-content/uploads/2019/07/sato.pdf

日本人の死生観・遺体観に基づく
グリーフケアとしてのエンゼルメイクに関する考察

https://www.med.osaka-u.ac.jp/pub/eth/site-wp/wp-content/uploads/2019/06/kobayashi.pdf

どのような心持ちえで会うのが良いのか

交通事故を含む犯罪によって家族を亡くした場合は、検視などが行われる可能性が高いのですぐには会うことができません。また焼死体や肉片となった場合はDNA検査によって個人を特定することになりますのでさらに長い時間が必要となると考えられます。どのような心持ちが良いのかに関して特筆して、私が意見することはありません。しかし、自分の持つ感情を否定したりすることはないようにして欲しいです。そしてご遺体が違う人のものであると考えることもおすすめできません。話したいことがあれば二人きりの時間を作ってもらい話すことが必要だと思います。家族が一緒にいてくれるなら、気持ちを共有することをしたら良いと思います。どうして、なぜという言葉が頭の中で渦巻くと思います。その言葉や感情をぐっと堪える必要はありません。損傷していない場所や面影の残る部分に触れるのも良いと思います。写真を撮るのも良いと思います。大切な人を亡くしたときにどの反応が正しいかはないと思います。お別れの際、遺族が満足する形で行うことが重要であるという論文はいくつか存在します。急に人に命を奪われていて満足なものなどはありません。人生のどん底と感じている中でも、しっかりと故人に気持ちを伝え家族と話し合うことが少しでも近づく方法ではないかと考えます。


大規模災害時における遺体の処置・埋火葬に関する研究

https://www.jsnds.org/ssk/ssk_24_4_447.pdf


見た人と見なかった人の違い

ご遺体とは会うべきであるというのは、上記したように「あいまいな喪失」が故人との別れの需要する過程が始まることを妨げると考えられているからです。見た人であれば自分の大切な人がなくなたことを意識できるでしょう。しかし、見なかった人は「この人は違う人じゃないのか」と考えてしまう可能性が出てきてしまうのです。しかし、この考えは現実を認めることができていない可能性が高く、無意識の中では亡くなっているいることを分かっているのでこの不和が精神的な健康に影響を与えると考えられます。しかし、見たからといって完全に認めることができるわけではありませんし、見なかったからといって全く認めることができるものではないのは誰もが感じることです。しかし見ない場合であれば、お葬式自体が誰のものであるのかが分からなくなってしまう可能性があると思います。なぜ自分が手を合わせたり、何をしているのか分からなくなってしまう可能性があると思います。しかし、見た方が必ずいいとも言えないです。傷ついた大切な人を見ることは勇気がいります。見ることがその後の精神的な疾患にどれほど影響するのかは十分な研究がありません。警察・検察・葬儀業者の方から傷みの程度を聞いていたとしても、自分の想像とは大きく異なる場合があります。私は見て良かったと思います。しかし、1年近くは傷ついた故人が写真のように思い出せばありました。しかし時間と共に、元気だった故人の写真を見るたびに変化していきます。見た場合でも見なかった場合でもどちらも正しいです。私は綺麗なままで故人を覚えておきたいというその思いをとてもとてもとても尊重いたします。何も間違っているわけではありません。

子供に遺体を見せるかどうか

警察・検事・葬儀業者が見る見ないを勧めることは非常に不適切だと考えています。その代わり状態をしっかりと説明するなど判断材料はできるだけ提供するべきです。これは大人が子供に見せるかどうかに関しても同じ意見です。大人が窓口となって警察・検事・葬儀業者から手に入れた情報は子供ができるだけ理解できる言葉や表現方法を使って伝えなければなりません。傷みがひどくない場合は会わせるべき(見せるべき)です。しっかりとお別れをさせてあげて欲しいです。親が決めることではありません。およそ3歳以下であれば幼児性健忘によってその記憶が大人になってまで引き継がれない可能性が高いです。傷みがひどい場合には親の感覚で判断することがあると思います。しかし、子供が幼稚園だから小学生だから中学生だから高校生だから大学生だから社会人だからは関係ありません。あなたの権利ではありません。子供の権利です。主体性を持たせた選択肢を与えてください。あなたの大切な人でもあり子供にとっても大切な人です。私は当時大学生でした。親は検察のアドバイス通りに見ないことを選択し家族全体でそのようにしようとしましたが、私はその意見を押し切りました。結果的に家族全員が見る選択へと変更しました。子供は親の悲しみを知っているので、意見に従い自分の意見を持たないよに振る舞う場合があります。何歳であっても同じ大切な人を亡くした一人の子供として扱って欲しいです。よろしくお願いします。そう言っても、見せたくない、見せることができなかったという人もいると思います。そういう人は多いと思います。実際に子供には見せられなかったという人にお会いしたことがあります。子供のことを考えて、子供の将来を考えての決断だったのだと感じました。この記事を読んで子供に選択肢を与えられなかったのは申し訳なく感じても、間違いであったと責める理由には全くなりません。あの時はそうするしかなかったのです。そんな余裕はなかったのです。

あいまいな喪失から受容に向かう過程 ― 東日本大震災における儀礼の役割 ―

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jafp/37/1/37_1/_pdf/-char/ja

まとめ

私は遺体はできる限り見るべきであるという意見のもと書き進めました。それは私自身が見て後悔しなかったし、他の家族も見て良かったという意見を持っているからです。しかしこれは個人の事例であり、もし見ていなかった場合には綺麗なままの思い出で残すことができたのだと思います。私は見るか見ないかの判断を迫られる時よりも前からずっと、どんな状態であれ会うことを決めていました。見なければ後悔するという思いで、家族に進言したことを覚えています。家族も綺麗な状態で覚えておこうと、はじめは検察の意見に賛同しましたが、見ておきたいという思いは常にあったのだと思います。見た場合のその後の回復や精神疾患の影響。見なかった場合の後悔や死の需要への影響。大切な人を亡くした遺族個人の思考傾向などが大きく関係すると考えられ、どちらが良いとは言い難いです。しかし、亡くなってしまった事実を受容していく態度と見る見ないの選択に対して「その選択が正しかったと」思い、後悔があってもそうするしかなかったと自分を許す心だけは大切にして欲しいです。

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