手話をやる事で「寄り添っている」つもり?の聴者。…「手話歌」という看板を下げた理由
表紙画像:「音色 / KREVA 公式YouTubeより」
「音楽の手振り身振り」について思うトコロ
(つらつらと書いてます)
「今までにない音楽表現」としての手話
音楽って
歌う
作る
書く
見る(観る)
奏でる
踊る
刻む
感じる
色んな楽しみ方があるけど
手話の事を何も知らないで
初めて手話歌をやってみた時に驚いたのが
そのどれでもない!と感じた事でした。
これ、多分
▶ 手話を「言語」としてスタートさせた方
▶ 手を一回も動かした事がない方
には、わからない感覚なんじゃないかなーと思っています。
『歌う人が歌う時に、振付でもなく、手が勝手に動く』
それに一番近いかもしれない。
音楽の「音」や「歌詞」に合わせて
決まった動きではないけど
感情と一緒に手振り身振りが入る
そんな感じで表現できるモノがあるっていう事を知って
今、この活動を2年やって
手話というモノをベースに使った振付を考えてきた時
手話歌でもない
手話ダンスでもない
言語としての手話ではなく
歌詞としての手話でもなく
「音楽」としての手話とその意訳
というモノに注力するようになりました。
振付を考える時
音が聴こえない人の事も意識したけど
聞こえる人の事も意識しました。
手を動かした事のある人より
手を一度も動かした事のない人を意識したし
特に
「音を作った人」
「歌詞を作った人」の『思い』を意識してきました。
「手話歌」を見ている人は、
手話の振付を「話し言葉と同じ『言語』として見ている」
元々「難聴ろう者さんと音楽を共感したい」という思いは「手話を学ぶ」という事には直結はしておらず
今も「難聴ろう者さんへの理解」と「手話を覚える事」は似て否なる事かと思っています。
(手話が出来たからといって、難聴ろう者さんを理解したワケではないという意味で)
活動初期の頃
手話歌をやると
難聴者さんやDEAF(聴覚障害)の方に表現をチェックしてもらったモノを発信しても
見て下さった手話ネイティブの方から「それでは伝わらない」とご指摘頂く事があり
なんで?と思っていたけど、それは
難聴や手話の種類が多彩なのも理由としてあるけど
特に、ここでやる手話を
見る人は「言語」として見ていたからなんだな
とジワジワと気付いて行きました。
だから「手話歌」という看板を下げました。
聞こえる人の「言葉」と「音楽(歌)の中の言葉」は違う。
喋る・小説の中のセリフ、映画やドラマのセリフ、
舞台やミュージカルのセリフも、全然違う。
喋る言葉と
歌う言葉が違うように
小説の中の言葉や
映画やドラマや舞台やミュージカルの言葉が違うように
手話も音楽の中では、言葉の乗せ方が違ってくる
ソコに
ダンスでもない
振付でもない
何か、感情を乗せる手の動きがあって
さらにソレは
ソロでやるモノとも違う
舞台で見せるモノとも違う
「リモート動画で」「複数人で」「映像で」
となると、また違うポイントで工夫が必要になる事に少しずつ気付いて行きました。
手話ネイティブさんからのご指摘 と
聴者手話パフォーマーの「寄り添う」
に対する "違和感"
▶手の動きを「言語」としてだけ見る手話ネイティブさん
手話(っぽい)手の動きを「言語」として見る手話ネイティブさんには
伝わらないと言われるのは当然の事で
最近やっと、BeOneプロジェクトならではの
「そのどれでもない振付」というモノが出来てきたかなーと
やっていて感じるようになりました♪
どれも
手話の堪能な方からのご意見による気付きでした。
・「話す時の手話はこう」
・「その手話は手話ではない」
・「ネイティブな手話はこう」
と言われて、違和感を感じていたのは
「手話」がやりたいというよりも
聞こえる聞こえないに関係なく
音楽を表現する一つのモノとして、手で表現するのは素敵だと感じていたからでした。
#大知くんは手の表現が上手い
このやり方は、より音楽や歌詞が沁みるし
作り手の「こういう気持ちで作ったんだろうな」というのが意訳していてわかるようになりました。
▶手話をやってる事で「寄り添っている」つもり?の聴者
もしかしたら、DEAFの方々や手話ネイティブの方々には
「命がけの大切な言語を、聞こえる人のエンタメに使わないで欲しい」
と言われるかもしれない。
だけど、
私たちは、難聴者さんやろう者さんの協力も得て活動してきたチームなので
それだけ「手話表現は素敵だという事の気付き」や
「聞こえない人もいる、という当たり前に聴者が気付くきっかけ」
にはなると思って、手話を振付のベースに使わせて頂いてます。
それに
「手話が解る人・出来る人だけに通じる手話はバリアフリーではない」
という考え方もあると思っています。(正否は別として)
聴者の手話パフォーマーが「聞こえない方に寄り添う」
という言い方をよくしますが、
自分はソコにもチョット、違和感を感じています。
※参考 「聴者が歩み寄るのか、難聴者が歩み寄るのか」 (過去投稿)
手話が出来る、というだけでDEAFの方に歩み寄ってるとは言い難いのは
言わずもがなだけど
この世界の殆どは「DEAFの方々が聞こえる人の世界に寄り添って生きてる」状態であって、
どっちがどっちに寄り添っているのか、私にはよく解らない。
だけど、聞こえに関係なく、誰にでも感じる・通じる事が出来るのが
「バリアフリー」というのではないかなー?とは、ぼんやりは思っていて
(聞こえに関する事だけではないですけど)
「誰が見ても感じる事のできる、ジェスチャーのような動き」として
手話をベースにするのは有効だな、とは、素人ながらに思っています。
誰が見ても「トイレ」と解るような
誰が見ても「非常出口」と解るようなピクトグラム
そんな感じで、その意味を知っていても知らなくても
「こんな事が言いたいんだろうなぁ」「こんな気持ちなのかな」
と感じられる何か、は表現できないのかなぁ?
と、これもまたぼんやりとですが、思っています。
出来るかわからないけど、出来たらイイナとワクワクです♡
ラップやライムは「音楽ではない」
手話歌も「手話ではない?」
以下は人から聞いた話で裏をとったワケではないので
不明確な事実としての記載になりますが m(__)m
昔、クラッシック音楽をやっていた流れの人々は
Rapやライムを「音楽ではない」と言っていたそうです。
今はどうなのかな?
ジャズ・ブルース・ヒップホップ・ラップなどは
黒人文化から生まれた音楽のようですが
どちらかというと、音楽というより「文化」。
そしてラップは特に、黒人の方々の心の叫びであり、自由度も高く、荒い言葉が使われる事も多くて(※その限りではない)
楽典で説明の出来るクラシカルな音楽の流れを辿ってきた方には受け入れ難いモノだったんだとか。
でも、今は「音楽」の一部として人々の心を動かしている。
身振り手振りに自然と現れる、心の叫びを表現に
このラップの辿ってきた流れのように
異端でも「手話の教科書」では説明の出来ない心の叫びを
ダンスでも手話でもない言語としてでもない流れを辿ってきたチームとして
表現出来るようになったらいいな
などと考えて
手話をしている人にしか分からない言語としての手話
ではなく
手話を知らない人にも感じる動きとしての表現
を追求してみたくなっています。
それも
「音楽が人生を豊かにする」という音楽のチカラを信じて
「手話を言語として見る」のではなく
「感情や思いを表現する動き」として、最初から捉えてしまったという
突発的な流れで出来たチームだからこそだと思っています。
企画運営サイドも手話どころか人脈も経験も知識も
なんにも無いトコロからスタートして、
考え方やアイディア、チームの進め方も解らないし
参加者さんも手話初心者、他にダンスや歌など、表現の特技がある人は少なく
手の動きであれ、他の動きや表情であれ、
表現が出来る人をどんどん集めたり育てていかなくてはならない状態ですが
この「私たちはまだ何者でもない」という過渡期が、とても楽しかったりします♪
今後、やって行きながら、また新しい考え方や目指すトコロがみつかるかもしれない。
ここでは「音楽コミュニティ」という位置づけで
今後も楽しく活動して行こうと思っています♪
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