守破離と無為自然の関係 − 武道を学ぶ枠組みに関する考察
はじめに
10代も終わりに差し掛かる頃から中国武術を中心に武道の稽古を始め、今はスポーツチャンバラを中心に続けていますが、実は型の稽古はあまり好きではありませんでした。そのため、何かの型を習うと、すぐに実戦を想定して相手の動きに合わせた応用変化を自分勝手に考えていたものです。そして、今でも一人で長々と決まった動きを演じる型はあまり好きではありません。そんなふうに型が嫌いな私にとっても、武道・武術を学ぶ上で型を学ぶことの重要性は理解しているつもりです。以下に、それについて述べたいと思います。
変幻自在な動き
私が長々と決まった型を演じることが嫌いな理由の一つは、覚えが悪いということもあります。実際、カラオケで歌う歌にしても武術の型にしても、少しの間でも使わなくなるとサビの部分以外は忘れてしまいます。それから、嫌いなもう一つの理由としては変幻自在な動きができるようになることが自分にとっての理想だからです。ちょうど、五味康祐の「喪神」に出てくる「夢想剣」のように相手に応じて変幻自在に動くことが自分にとっての理想なのです。そして、こうした動きを会得することと「動きの決まった型を演じる」ことは真逆に見えますが、果たしてそうなのでしょうか。
守破離
この言葉については流派によっても様々な解釈があると思いますが、自分流の解釈を紹介します。これは技を習得するプロセスを大まかな3段階で表す言葉です。「守」の段階では、ひたすら師の動きを真似します。このときの真似は徹底的に細部にこだわり、呼吸や体重のかけ方といったところまで真似することが要求されます。これで基礎ができた後は、初めに習った教えの一部を破り、自分なりの工夫を付け加える「破」に至ります。そして、最後には「守」で学んだ動きの制約からは一切離れて変幻自在に動く「離」の境地に至ります。
なぜ最初から離を求めないか
もし、目的が変幻自在な動きならば、なぜ、最初の段階では決まりきった動きを徹底的に学ぶ必要があるのでしょうか。現実的な問題として、初心者に変幻自在の形のない動きを教えることは、教える方としても教えられる方としても無理があります。だから、型を設定して教えるしかないでしょう。でも、それ以上に「守」の段階を経る重要な意味があります。それを説明するには「老子」の中で説かれている「無為自然」について説明する必要があります。
無為不自然
「無為自然」は老子や荘子、つまり、道教の理想とする境地を表す言葉です。しかしながら、この言葉はたいてい間違った受け取り方をされています。無為自然とは、好き勝手にやりたい放題にやれば良いといった具合にです。しかしながら、好き勝手にやることは「無為」ではあるけれど、通常、それで得られる結果は「不自然」です。もし、後天的に不自然な考え方や動きの癖を付けていないならば、好きに動けば「無為自然」の動きとなりますが、通常はそうした癖があるので、「無為不自然」な動きになってしまいます。
有為自然から無為自然へ
そのため、まず、普通の人は「有為自然」を求める必要があるのです。そこで具体的にやることは、武道として不合理な動きを徹底的に無くしてゆくことです。もう、勘の良い読者はお分かりだと思いますが、この目的で「守」の段階では、武道家として優れた師匠の動きを徹底的に真似るのです。これだけでも、かなり武道家としては成長できますが、師弟といえども体格も性格も異なる別の人間なので、師匠の技がそのまま弟子にとっての最適解ではありません。そのため、徐々に自分にあったものへと変えてゆく過程が「破」であり、その完成形が「離」です。道教的な言葉で言えば、有為自然から無為自然への移行です。
まとめ
武道の学習過程である「守破離」を道教の概念である「無為自然」を用いて説明してみました。実は、この考え方は何年も自分の中で温めていたものです。もしかしたら、同じような概念を私などより、もっと分かりやすくまとめている方が、いらっしゃるかも知れません。でも、もし、私の言葉が分かり易く、気づきのきっかけになる読者が一人でもいたならば幸いです。
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