90年代ザンビアの田舎暮らしとソマリア料理
国際協力という仕事を生業としているので、アジア、アフリカの色々な国に駐在や出張をしました。その最初は、1991年に青年海外協力隊(現、JICA海外協力隊)として派遣されたザンビアでした。そこは、首都のルサカから700kmも離れた田舎町で、日本人どころか外国人は少なく、ザンビアにどっぷりと浸かる生活をしていました。
そんな町にソマリア人経営のレストランがあり、良く食べに行ったものです。そんな訳で、ソマリア料理が自分にとって思い出の味になっていますが、最近、その味を自分で再現することがありました。それについて、昔のザンビアの思い出とともに書いてみます。「ソマリア料理ってどんなもの?」とか「90年代のアフリカの田舎ってどんなところ?」といった興味のある方には、面白い話が提供できると思います。
アフリカの田舎にどっぷり
その当時、ザンビアには約70人の青年海外協力隊員が派遣されて、私はその中の1人でした。そして、私の派遣されたのはムピカという町ですが、ここは一人任地と呼ばれていて、他の協力隊員からは孤立していました。次の一番近い日本人が住んでいる街までは200kmほどで、普段は会う機会もなく、一人でザンビアの田舎生活に馴染むしかありませんでした。
そんな生活をするようになって1年も経つと、最初は違和感があった黒い顔ばかり並んでいる光景が、すっかり当たり前になりました。自分の顔を鏡で見て初めて、自分がアフリカ人でなかったと実感するほど、黒い顔が標準になりました。たまに首都ルサカに上京して、日本人が集まるパーティーに参加すると、逆に、白い顔が並ぶ光景に違和感を感じました。それほど、自分の感性はアフリカナイズされていました。
ザンビア料理
1991年当時のザンビアの田舎で食べられる料理は、とてもシンプルなものでした。主食のシマ(とうもろこしの粉をお湯で練って餅状にしたもので、ケニアではウガリと呼ぶ)と主菜の牛肉、鶏肉、魚のどれかと野菜(ケールの微塵切り)で、おかずはどれも同じ調理法で同じ味付けです。それは、玉ねぎとトマトのみじん切りを少々加えて、質が良いとは言い難い油をたっぷり注いで、炒めるというより油で煮て、塩を少々加えたものです。毎日の食事として飽きが来ないシンプルさですが、食の種類の豊富さでは世界最高クラスの日本から来ると、やはり、違う味のものが食べたくなります。
自炊の充実
赴任地のムピカでは、自炊しない限り、変化に乏しいザンビア料理ばかりを食べることになるので、色々と工夫しながら自炊を充実させました。首都ルサカで入手した挽肉を作る器具で塊肉から挽肉を作り、肉団子やハンバーガー、餃子なんかも手作りしました。もちろん、餃子の皮なんて売っていないので、皮も小麦粉を練って自分で打ちました。また、ザンビアも含めて、アフリカではインド系の人々が商人として活躍していることもあり、ルサカに上がるとスパイスが安価に大量に買うことができました。そのため、色々なスパイスを買い込んで、試行錯誤で組み合わせ、カレールーなしでカレーを作ることもできるようになりました。これは、自信作で、帰国してから母親に作って出したら、予想外の本格カレーが出てきたようで驚かれたほどです。
ソマリア・レストラン
こんな具合に、自炊とザンビア料理が自分の口に出来る食べ物の全てかというと、一つだけ例外がありました。幹線道路沿いにあるガソリンスタンドの並びに、少し、古ぼけた建物があって、そこにはザンビア人と違う顔立ちと服装をした人達がレストランを営んでいました。恐る恐る入ると、そこはソマリア難民が経営するレストランというか食堂で、こちらもシンプルだけど、ザンビア料理とは違う味わいの料理を出してくれました。茹でた肉の塊とチャパティー、それから何かのクリアースープがドンと供されました。その主菜は、ヤギ肉の煮込み料理で、スープはその煮汁でした。
ソマリア料理の味わい
なんでも油ギトギトにするザンビア料理が続くと、ソマリア料理は体にやさしく感じられました。ヤギの煮込みは、実にシンプルで、たっぷりのカルダモン、クローブ、塩以外は何も加えないで、ひたすら煮込んだものです。スープはヤギ肉の出汁が良く出ていて、肉は強すぎないカルダモンの香りと薄めの塩味で、あっさり味の美味しいものでした。この付け合わせは、一度広げてからコイル状に丸めて、また広げて、パイのように細かい層に焼き上げたチャパティーです。そして、たまにスパゲティーが入ると、トマトソース味のスパゲティーが出てきました。
ソマリア料理の作法
ソマリアの半分はイタリアに支配されていた時代があったので、こんなふうにスパゲティーが食べられるのですが、面白いのは食べ方です。ソマリア料理は、基本、手掴みで食べるので、スパゲティーも手でクルクルと丸めながら食べます。もちろん、茹でヤギも手掴みで、肉が硬い場合はナイフで切りながら食べます。唯一、スープだけは皿からスプーンですくいます。そして、ヤギ肉はご馳走なので、軟骨も含めて全て美味しくいただきます。最初、軟骨は硬そうなので残していたら、「そこが美味しいんだ」と店員に言われてからは、軟骨も食べるようになりました。
日本に通じるソマリア文化
ソマリアはイスラム教の国なので、レストランのオーナー兼店員の皆さんもイスラム教徒でした。当時、日本で聞くイスラム圏の情報は欧米経由がほとんどだったので、イスラムというと、原理主義の過激派の怖いイメージが強かったものです。でも、実際のイスラム教徒と友人になってみると、全然、イメージは変わりました。彼等は、当時のザンビアの人達より、日本的な義理人情の通用するところがあり、随分と良くしてもらいました。常連になると、チャパティーの作り方を教えてもらったり、普通、お客には出さないヤギのレバー炒めを出してくれたり、たまに無料で食べ放題にしてもらったりという具合です。
任地の引き上げ
このソマリアレストランの人達の人情が身に染みたのは、協力隊員としての任期が終わり、首都のルサカに引き上げるときでした。このタイミングで、一番親しくしていた同僚がいなくなっていたこともあり、引っ越しの手配は一向に進みませんでした。当時のザンビアの田舎町では引っ越し業者も一般人が使える運送業者もありません。引っ越しは個人的な知り合いの伝を頼るしかないのです。それをソマリアレストランで話したら、「俺が手配するから心配するな」と言われました。任地を去る日、本当に軽トラックで迎えにきてくれました。でも、そのままルサカに向かったのではなく、ソマリアレストランに止まりました。
二宿の恩義
どうなるか心配だったものの、どうすることもできないので、そのまま、ソマリアレストランで厄介になりました。1日が経ち、2日が経ち、3日目、ソマリアレストランに寄ったトラックの運転手が荷物と一緒にルサカまで運んでくれることになりました。実は、レストランの人々が3日間、トラックの運転手達に交渉をしてくれていたのです。その間、食事(もちろん、茹でヤギ)も出してくれたし、寝床も提供してくれました。そして、レストランを出るとき、お金を渡そうとしたら、決して受け取ってはくれませんでした。
神の前の平等
後で、コーランを勉強して分かったことですが、イスラム教では旅人に親切にしろという教えがあります。また、神の前では皆平等の考え方があって、同じイスラムを信じるもの同士は人種なんて関係ないということが単なるお題目ではなく、実践されています。それはメッカ巡礼で色々な人種が同じものを食べて、同じところで寝て、同じ扱いを受けることで実感されるのです。後になってマルコムXの映画でその場面を見た時には涙が出てきました。あのソマリアレストランの人達は、任地を引き払うのに困っていた私を見て、人種も違い、イスラム教徒でもないのに、神の前の平等の心で接してくれたのだと気づいたからです。
懐かしのソマリア料理
こんな体験があって、ソマリア料理の茹でヤギは私にとって特別な料理ですが、先日、近所に住むケニア人の友人が鹿の肉が手に入ったといって、分けてくれました。友人は、「ただ茹でれば美味しい」と教えてくれたのですが、肉の塊と茹でるという言葉で、茹でヤギを思い出してしまいました。早速、冷蔵庫を見ると、いい塩梅に、カルダモンとクローブがありました。また、パキスタンから持ってきた岩塩があることを思い出して、早速、懐かしの味を再現してみました。
結果は、上の写真の通りです。豪快な肉の塊が並んでいる様は、かなり、当時の茹でヤギを再現できたと思います。ただ、添えられている唐辛子は、やはり、友人が持ってきてくれたものですが、本当のソマリア料理では添えられることはなく、私のアレンジです。肉は、ソマリアの作法に則って手掴みで食べました。味も、結構、当時のものが再現できたと思います。初めは恐る恐るだった妻も、美味しいと言って食べていました。ただ、スープはあまり美味しくは感じられず、結局、捨てました。塩加減が悪かったか、あるいは、私が忘れただけで、玉ねぎなどの他に味が出るものを入れなければいけないのか、もう、真相は確かめようがありません。
舌の記憶
細かいことはさて置き、懐かしの味を味わうことで、すっかり遠い過去になっていたソマリア料理とソマリア人との出会いを昨日のことのように鮮やかに思い出しました。舌で覚えた記憶は、すごいものです。いや、誰でもそういう訳ではなく、私がただの食いしん坊なのだろうか。どちらにしても、当時の記憶を鮮明に思い出したので、こうして文章にしてみました。こんな昔話を楽しんでくれた読者がいれば、幸いです。
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