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異界に開かれている~『家守綺譚』『冬虫夏草』etc.

打たれ弱いのは子どもの頃からのことでした。
いつしか、些細なことに感動して涙が出てしまうことは増えたけれど、自分が辛くて泣くことは減っていきました。
初めて強い人だと言われたのはいつだったか忘れてしまいましたが、ああ…もう私は周りから見て弱い人間には見えないのだという自覚があります。
でも、本当は打たれ弱いのは変わっていないです。
自分だけがわかっていること。
泣けない代わりに、身体が悲鳴を上げている、
涙で流れていかないものを身体が引き受けてしまっている、と。

この3年間は特別に、新しい日常とやらのせいで心身を結構にやられてしまったように感じています。
違和感だらけの人間社会の中で、何とか生き延びてきたのに、これ以上?ここまで狂ってしまうのかと。
人間の暴挙は、自身にも向けられる…。
他者をも巻き込んで傷つけている暴挙と気づかず、さらにエスカレートしていくばかり?

それでも、生きていく…。

  *****

最近の私を支えてくれた物語たち。

明治の時代。
物書き・綿貫征四郎を初め、誰もが、植物も動物も、異界の存在たちまでもがグラウンディングできているからこその、それぞれの間での交流があるのだと思いました。

『家守綺譚』の続編。
登場人物たち、植物も動物も、異界の存在たちも、ますます愛おしく思えてなりませんでした。
できることなら、さらなる続編、帰途につく綿貫と愛犬ゴローの道中の物語が読みたいです。
そこは省いてのさらなる続編でも良いのですが。
それにしても、あの20世紀初頭、明治くらいで物質的進化を調整できていれば…などと無理なことを思わずにはいられませんでした。
植物、動物、異界の存在たちが生き生きとしてこそ、モノが生かされるのでしょうに。

『家守綺譚』、『冬虫夏草』の番外編。
舞台はトルコですが、ここでも異界の存在たちが介入しての豊かな人間ドラマが展開…なはずが、愚かな人間たちは戦争を始めてしまったのでした…。

次々に、梨木香歩さんの本を読んでいるのですが、
『椿宿の辺りに』『 f 植物園の巣穴』『沼地のある森を抜けて』『ピスタチオ』等々も、やはり異界の存在たちと、目に見えないという意味では亡き人も含めての思いのエネルギーのことが、当たり前のように物語の中で重要な要素として描かれています。
だから、それがあるからこそ、これらの物語に私は支えられたのです。
現実から逃げて?ではなくて。
(もちろん逃げるひとときも必要ですが)

現実に起きている人間の暴挙とは、狭く限りある頭の理解(科学的に認知されたことや専門家の推測、と、勝手気ままな多数派の支持…)から始まります。
狭く限りある人の頭のみしか使わないなんて……
そのことが、いかがわしく、胡散臭いのです。

それでも、生きていくという意志があるから、
私は、植物、動物、そして異界へと開かれていようと思うのでした。

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