カフェイン。
もうたぶん、今を知ると極端に摂取する必要はないなーと思えて仕方ないもののひとつかもしれない。いや、いま思えばそこかしこにカフェインまみれじゃねーかと声をとばしそうだ。
いままで、なぜあんなにも取り憑かれたように飲み続けていたのか不思議なくらいだ。あたかも珈琲は人体にとって必要不可欠な栄養素だとでも言わんばかりではないだろうか。
習慣たる日々を疑えとは、まさによく言ったもので。
よくよく巷を見渡せば、そこかしこにカフェインたちが並列しているようにも思うし、そもそも自販機の前に立っても、小銭を投入する際に、自身がはてさてと意識したことがあろうか。いやない。我々が無意識に口にしようと思っている飲料中毒の手軽さと恐ろしさよ。
自覚の兆候は、妙に頭にモヤがかかっていて寝ても覚めてもハッキリスッキリしない日々とどことなく鬱屈した気分を疑って以来のよどみ。
よもやと思いもっぱら喉の渇きや潤いのためには、炭酸水、天然水、せめてもの代用品で麦茶様というシロモノに切り替えすがりついてみたところ。
結果は、見事に的中していたと、思う。思うっていうのは、明確に医者に罹ったわけでも医療機関から何か指摘されもしていないからだが、感覚は人に委ねるものじゃないので、自己基準で。
まーでも、きっとこれは自分自身の問題だ。同じように他人がカフェインバリッバリのものを摂っていたとしても、無症状かもしれないよね。でも他人じゃない我が身の上では、カフェインに対して効果抜群を食らってしまう体質なのだろうと思うと腑に落ちる。
当然ながら習慣化していたものを途端に止めるとあらゆる面で刺激的であったことの効能(覚醒)を裏返すので、当面口淋しさというのか物足りなさも味わうのだ。そう強烈に味わうのだが、それ以上に寝ても覚めても睡眠不足のような、何をするにも二の足億劫になる日々と精神状態、それを思えばこそ切り抜けたいし、止めるに限ると言いきかせている。
絶対に無ければ生きていけないものなのか、それは自己判断なりにも離脱症状のしんどさを知った今、戻りたい程のものだろうか。そんな優先順位を考えた上、尚更避けることは大事かなと。今になって分かる、その時にしか分からない言えないこと。なんとなく徐々にだが乗り越えてきたかのように感じる自分。ただし、誘惑は変わらない。それだけのこと。
比較にするのは他人とのそれではなくて、現在の自分。過去こうだった事を思えば、今ある自分に自分で認める褒めるといったところだろうか。しかし、そのご褒美にほっと一息などと囁かれカフェイン摂取してりゃ本末転倒なので、邪念も雑念も誘惑から遠い位置に座すると。
あなたも陥るカフェインのゾッとする話は、もしかすると離脱症状として数ヶ月かかる代物かもしれませんよ〜。なんて。
余談、摂取しなくなった反動なのか人体メカニズムなのか、食事が最高に美味しく感じる反面、美味しさのあまり食べっぷりも変化します。それと今まで通りの食事なのに肉付きが変わって肥えてます。これがいわゆる覚醒作用が切れたからなのか検討もつかないけれど。自分はタバコやったことないのでわからないんだけど、タバコ吸う人が止めると途端に太る現象に近いのかな。なんて。
ではまた。
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