リズムという名の他者
大学院は思ったよりも忙しい。というか、自分で勉強しようと思ったら、「アレもコレも」と限界まで手を出したくなる。今の大学生はすごく真面目だ、という話を聞くが、今の大学院生(あるいは、特に俺)もそうなのだろうか?もっと力を抜きなさい、と自分に言い聞かせる日々である。
忙しさを去なすために、なるべく上手に休もうと思っている。「オンとオフの切り替え」というのは小学生の頃でも言われていたが、まさにソレだ。オフをちゃんと設定してあげないと、オンに入れない。
俺は放っておくとずっとものを考えてしまう。さっきまで読んでいた本のこと、先週受けた授業のこと、あるいは今日やるべきタスクやスケジュール。いくらなんでも考えすぎだ。俺の身体は本来、そんなに頭を使って生活するようにできていない。そこで、思考を他者に委託することを試している。
ここで「他者」とは、20世紀以降の哲学でよく言われるような「他者」だ。自分以外の人、もの・こと。全てをひっくるめて「他者」だ。俺の代わりに、手と文字に考えてもらっている。ノートに書きつけて論文の構想を練ったり、アプリに入力してタスクとスケジュールを管理したり。とにかく、「自分でやる」という負荷を減らしていく。
じつは今日の日刊弁慶も、いつもと違うスタイルで書いている。普段は日中に散歩でもしながら、どういうことを書こうか、と考える。しかし、今はまずPCの前に座って、とにかくキーボードを叩くというところから始めている。10本の指が文章を紡いでくれる。大事なのはリズムだ。止まらないこと、止めないこと。グルーヴで書く。手を止めたところで音楽は止まる。文章は止まる。
リズムというのは主体を超えて存在するのだと思う。世界にはリズムがある。たとえば、ほぼ24時間ごとに太陽が昇ったり、約365日で同じ気候が巡ってきたり。まあこんなのは凡庸な例だけれども、もっと、言い表し難い潜在的なリズムのようなものが空気の中で震えているのを感じる。周期的に膨張と収縮を繰り返す空気。それに身を任せれば、文章が前に進んでいく。
冒頭でも書いたが、力を抜くことが肝要だ。身体を硬くしてしまったら、リズムに乗れない。空気の匿名的なリズムを信じること。それが力を抜くことだ。少し前の記事で「リキまない」ということを書いた。そこでは、すでに存在する力に身を任せることで脱力できる、とそう述べた。リズムも力だ。それはいつもそこにある。その音楽に加わるように俺たちを誘っている。
ところで、今週は引っ越しをした。ちょっと遠方に移ったから、なんだかリズムが変わった気がする。生活リズムはさほど変えなくてもよさそうだから、そういうリズムではない。街の空気が持つ固有のリズムがゆったりしている。東京って相当速い世界だったんだな。いま、まだ身体を新居に慣れさせているところだけれど、やがてこのリズムと俺が噛み合ってくるだろう。ここの音楽が聞き取れるようになるだろう。