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ブルーダが帰ってきた、私は気を利かせて、居間の背の高い箪笥の上、一番奥に身を潜めた。
黒猫と暮らしているとなれば、どんな咎めが降りかかるか判らない。
ブルーダはアトリエに入っていく、その後ろから、スファラド人であろう画商。
民族衣装である黒いざっくりとした服を着て、濃い顎鬚、本来砂漠の民である彼らの服は涼しく設計されているが、ブラバスに暮らすスファラドはモヘアや、アルパカで暖かい服を作る、富の象徴だ。
彼の後ろには、奇麗な色の毛糸で織った服を着た、美しい少女。赤い紅をさしている。
私がドミニカニスに追われた時、窓を開けて助けてくれた娘だった。
「デライラです、ガリアで拝見したリヴェットさんの絵が好きで、私に買うように言いましたので、連れてきました」
シャイロックと言う画商は娘をブルーダに紹介した。
デライラはブルーダにお辞儀をし、私が隠れて見ているのに気づいたらしく、箪笥の上に視線を送ってきた。
気を感じる娘か、それで私を助けたのだなと得心した。
デライラは、ブルーダが描いたヒルダの絵から発せられる気を見てその美しさに震えた。
そして、その絵を描いた画家の想いに触れ、どうしようもなく恋をした。
彼女はキャンパスに、父の画廊で見かけた画家の絵を描き続けた。
まるで、ブルーダがヒルダを映していたように、自分の心象の中の男を、それは美しく、凛々しく。
恥辱に過ぎない額の×傷さえ、絵の中で白く美しく描かれている。
「お慕いしています」
デライラは唇だけで呟いた。
父のシャイロックは鷲鼻の上に、丸いめがねを乗せ、真剣な恐ろしい表情をしている。立てかけられたキャンバスを一枚一枚動かし、絵を値踏みする。
「シヴァのヒルデガルド大臣は美人の誉れ高く、そのポートレートは、大陸でもブラバスでも売れます、イシュタル軍司令官も、ルナ女王も同じように需要があるのですが」
ブルーダは首を振った。
「今、御二人は描かれていない・・残念です」
画商の手が止まる、私を描いた4枚。
「黒猫のモチーフは、シヴァかテイラー・マサカド様の領内ならなんとか、他では売れません、特に、明日からは異端の絵とされるので、ドミニカニスがこの国から引き上げるまで待つか、シヴァ方面か砂漠のサラサドあたりのスルタンに宛てなければ、サラサドでは、未だ黒猫は智恵の象徴、闇を魔としない進んだ文明を持った国です」
画商は筆立てから羽根ペンを出し、パピルスにさらさらと勘定を書き込み、ブルーダに渡す。
ブルーダが頷くと、懐から小さな皮袋を出し、大きな皮袋から出した金貨を15枚数えて入れた、口を縛ってブルーダに渡す。
「リヴェットさん、今後の御付き合いがあるので、いろをつけておきました。貴方の絵は大変魅力的だ、思いを込めた芸術としても商品としても、心を振るわせる絵を描ける画家は貴重です」
おっかない顔をしていた画商の顔が綻んだ、いかめしく顎に張り付いていた黒い髭まで、ふわりと広がったように見える。
デライラはきらきらした目でブルーダを見る。
「貴方の絵をガリアで拝見しました、沢山描かれているようで、どれもが大変美しいヒルデガルド大臣の絵姿でした、私は想いの美しさを描ける貴方を尊敬します、リヴェットさん、貴方の女性に対する想いは本物です」
画商は自分が買い取った絵に目をやり、優しい表情になる。
「女性は、刻一刻変化する、それは女性自身が変わることも有りますが、見ている貴方の心が変わっていく方が大きい。貴方の、ヒルデガルド様への想いがどれほど美しいか、途中の経過はどうあれ、この絵に描かれたものは人の胸を打たずにいません」
ブルーダの額の傷の所以はシャイロックにも知られているらしい、ブルーダは寂しげに微笑んだ。
「もっと沢山、美しい肖像を描いてください、私は貴方の絵をもっとみたい、やがて、ヒルデガルド様だけではなく、他の美しい女性も」
画商の言葉に、ブルーダが小さく頷いた。
「では、今日中にエデンを出てください、魔女狩り専門のドミニカニスが、カウントベリーから来て駐留を終え、明日から動きます。とりあえず、シヴァやマサカド・カンムーの兵が居る、エデン屋敷へ逃げ込むのも手かもしれません」
ブルーダは金貨の入った袋を持って、頷いた。
画商と娘は絵を持った。
「良いですね、くれぐれも今日中にエデンを出るのですよ」
帰り際シャイロックが念を押して行った。
「ネロ、ネロ!!」
画商が帰ると、ブルーダが私を呼んだ。
「見てよ、金貨15枚だよ」
なめしの良い皮袋から、金貨を出して私に見せる。
猫に小判という諺を知らないのか?
「乾杯しなくちゃ」
いやいや、旅支度が先だろう、危機管理の甘いやつ、親切な画商の言葉を聞いていなかったのか?
私の忠告を無視して、ブルーダはストーブにかかった薬缶から陶器のカップに波々と湯を注ぎ、そこへ陶器のビンを翳す
あちゃぁああ・・・命の水がどぼどぼと注がれる。いつもより3倍は濃い。 部屋に良い香りが充満する。
「乾杯」
ブルーダは、はしゃいだ声で言うと、それを一気に空けてしまった。私は顔を洗う振りをして、前脚で目を覆った。
どうしたものかと思案に入る。
「ねぇ、ネロ」
ブルーダは酒臭い息を吐きながら、私に寄って来た。逃げようと思ったが捕まった。
ねえ、ネロ
僕が絵を描くようになったのは愛し合っていた時の彼女の美しさを、可愛らしさを覚えていたかったから。
あの切なさを、泣き出したいような嬉しさを、誰にも見て欲しいと思った、感じて欲しい。
僕は大切なものを守れなかった、時の流れの中に僕を愛しいと思ってくれた、想いを流してしまった。
二度と取り戻せないものでも、それは確かにそこに有ったのだと、輝くような金色の光に包まれていたと感じたい。
僕は、あの嬉しさを感じるためだけに、そのほかの人生を生きているのかもしれない。
キャンパスに色を置くたびに、絵具をテルピンで溶くたびに、誰も聴くことの出来なかった彼女の声が耳に響く。
そっと頬に押し当てられた、唇のひんやりした冷たさと、優しい柔らかさと。
あの幸せが刹那でも僕の物であったことを。
想い合った時を、残したい・・・
ブルーダはカップをテーブルに置き、小さな羊皮紙を出した。
「これ、持っていてよ」
薄い羊皮紙に描かれたデッサン、ヒルデガルドとブルーダ。間に私が居る、いつの間に描いたのだ、だがどのキャンパスに描かれたヒルダより、その絵は可愛らしかった。
ごめんなさい、そして、今でも愛していますと書かれた文字。
それを首のリボンに挟まれた。やれやれ、迷惑な、私にもヒルデガルドにも。
「彼女にお詫びがしたいんだ、よりが戻るとは思ってないけど」
それなら、一切関わらないのが、お詫びだし、楽しかった思い出への礼だと思うが、この唐変木には通じないらしい。
いや、普段は分かっているくせに、飲むと解らなくなる。ん? 本当は分かっていないが素面の時は分かっている振りをしているのか?
どこまで野暮なんだ。まぁ、自己満足も想いだし、こいつの原動力だからブルーダが渡せるときまで、預かってやろう。
「うにゃん♪」
旅支度をしろと催促をしたのだが。
「大丈夫、まだ、午前中だよ」
ブルーダは2杯目を、さっきより濃く造ってしまった。
長椅子に座って飲み始める。今を重ねて未来を作るのだと、上機嫌で語る、眼の周りが真っ赤だ、相当嬉しいらしいが、未来を創るならば、
ならば、まず身体を動かさなければいけないのに・・・
「あぉーん♪」
すぐに出立しようと言ったのだが、聞いちゃいない。
そして、ヒルデガルドが如何にステキで可愛らしく、美しいか、また、過去と言う玩具と戯れ始めた。
「みゃああお」
魔女狩りにあうぞと警告をした。
「大丈夫、僕は魔女じゃないもの」
私はストーブの前で、後ろ足を使い耳を掻くしかなかった・・・。
「想いがこもって、心を振るわせる絵だって、褒めてくれたよ」
そりゃ、どんな想いも、元は美しいものだが、潔く諦めればもっと美しくなるのに。
猫の哀しさで、ブルーダの酒を止める事が出来なかった。
そして、案の定、ブルーダは潰れた。
夜半からしんしんと雪が降り始めた、ブルーダは起きない。私も長椅子で眠った。
気付くと朝になっていた。ブルーダが二日酔いの赤い顔で窓を開けると、冷気が流れ込む外は灰色の空、白いボタン雪がふわふわと舞っている。冷たい空気の中に、あったかいパンを焼く匂い。
誰かが階段を昇ってくる。
「リヴェットさん、焼きたてのパンを持ってきたよ」
1階に店を持つ、大家のパン屋だ。部屋を借りるときに、毎朝のパンが契約に入っているらしいが、今まで部屋まで届けられたことは無い。
ブルーダは催促しないとごまかされる。食べそこなったこともあると、こぼしている。常ならばブルーダが下へ取りに行っていた。
「ベーカーさん、ありがとう」
ブルーダは嬉しそうにドアを開けた。そこには、パン屋のオヤジ、その後ろに白銀の制服をつけた衛士が三人『ドミニカニス』
神の犬と呼ばれる騎士達。
二人があっという間に、ブルーダを左右から取り押さえた、他の一人が私につかみかかってくる。
「異端審問である、神妙にせよ」
犬に神妙にしたら、何をされるか分かりそうなもんだ、馬鹿を言うな。
「ネロ、逃げて」
ブルーダが叫ぶ、言われるまでも無く私は開け放たれた窓から外へ出た。
2回斜めジャンプをして、窓から手が届かない位置へ行く。窓からドミニカニスがこちらを見ている、その頭に雪が積もる。私の足元も雪で心許無いが、慎重に足場を確かめながら逃げた。
足が雪にとられ肉球が冷たい、私は再び宿無しになった。黒い身体に、意地の悪い白い雪が降りかけてくる、寒いのは苦手だ、どうしたものか・・・・
「猫だ、黒猫だ」
雪の中で私の身体は目立つ、だが、雪に石も埋もれて、礫を投げられることは無い。
窓から窓へ飛び移る私を追って、雪球が飛んできたが、私のはるか下で壁に当たりつぶれる。
3次元で動く限り、私たち猫は、人という鈍重な生き物に捕まる気遣いは無い。とりあえず、今日の寝ぐらを確保することにした。
結局ひとまわりして、パン屋の屋根裏にねぐらを求めた。
下に竈(かまど)があり、夜でも置き火があって、その上と煙突の通っている筋はは暖かいのだ。万一私が捕まっても、なんとかパン屋を道連れにしてやろう、そんな気も有った。
次の日も、朝から雪だった。ボタン雪が根雪の上にどんどん積もっていくふわふわのそれが音を吸い取り、しんとしているはずだが街はなんとなく、ざわざわしていた、人の気と言う奴が動いている。
午後の早い時間、私は広場を見下ろせる屋根の上に居た。灰色の空から、ひらひらの雪がどんどん落ちてくる、私の黒い身体にも、だんだん積ってくる。
広場を中心に四方へ伸びる街道、その真ん中に異端審問の台、まだ撤去されていない。
既に逆L字の絞首用の柱が2本こさえられロープがかけられている。
雪の中、白銀の甲冑を着けたドミニカニスが台の周りに整列した。ファンファーレが鳴らされる。
白い雪が甲冑に積もる、異端審問台の周りに白銀の騎士が十重二十重、その数100。
台の上にテーブルが置かれ、先日来の金ぴかにブルーの坊主が座った。頬が、大きな犬のように垂れ下がり、厚ぼったい目をしている。なんとも、嫌な面相だ。
ドミニカニスに3人の囚人が引き立てられてくる。ブルーダと、昨日見た、スファラドの画商、そして髪の黒い美しい少女、デライラ。
「これより、神皇歴1192年発布の改正異端審問法に基づく異端審問を始める」
金ぴか坊主が、厳かに言い渡した。ドミニカニスの指揮官が指示をして、兵が3人を並ばせる。
ブルーダと画商、そして少女。2歩下がって、ブルーダのアパルトマンのパン屋。
褒美はまだかと、わくわくした顔をしている。
「シヴァ・クロノス国、酒造元、カール・リヴェット嫡男、ブルーダ・リヴェット。 スファラド人画商、シャイロック・ゴールドバウム、その娘デライラ。エデン在住のパン屋、ベーカーの訴えにより汝らが異端か否か、審問するものである」
「クライネサンプ司祭」
シャイロックが発言した。
「命乞いか、スファラド人・シャイロック」
司祭が笑いながら言う。
「いえ、そんな無駄なことは致しませぬ」
シャイロックは毅然としていた。
「死ぬのが怖くないと申すか」
クライネサンプは意外そうに言う。
「何を愚かな、死ぬのは恐ろしいに決まっているではありませんか、貴方様もでしょう」
「愚僧は、死ぬことを怖れぬ、何故なら主に導かれ天国へ召されるからだ」
「神皇専用の天国へ、召されると信じていらっしゃる、笑止な」
シャイロックは本当に笑った。
「おのれ、愚弄するか」
「愚弄しているのは、クライネサンプ、汝等であろう」
互いの声は朗々として、広場のはるか上に居る私のところまで届いている、まるで芝居見物の様だ。
クライネサンプ大司祭は、垂れ下がった頬まで真っ赤に染めている。
怒気が黒い瘴気となって雪を穢した。
「クライネサンプ、そも汝等が、主と崇めている人は、スファラドぞ。かの方が亡くなったのは、スファラドの内紛、それに手を貸したのは汝等、白き人であろう、たしか、ロマーナであったはず」
シャイロックは伝わる史実を述べた。
「黙れ黙れ、黙れ、屁理屈など要らぬ」
クライネサンプは大声で打ち消そうとする。
「屁理屈ではないぞ、クライネサンプ、史実だ」
クライネサンプの怒りは頂点に達し、その表情は、もはや聖職者ではなく彼が審問しようとしている悪鬼そのものだ。
「主は、神が遣わした光の子だ」
司祭は新約と言う本に書かれていることを叫んだ。
「さもあろう、その神とは我ら、スファラドの神。そして、汝等が神と崇めているのは、その子であり、我らと同じ血をもつ方」
「違う、汝等、スファラドは闇、光あれと神が言われたとき、かの方が、降りていらっしゃった」
「阿呆め、闇がなければ、光のありがたさも判らぬわ、さらに煌々とした光の中で人は眠れぬ、闇も光も、また神なのだと判らぬか」
司祭が止まった。
「闇も光もスファラドと、語るに落ちたわ」
シャイロックが畳みかける。
「シャイロック、貴様、神の慈悲を持って、楽に死なせてやろうと思ったがもう、赦さぬ」
「おう、どう死のうと構わぬ」
「貴様の娘だけは助けてやろうと思ったに」
「異端を審問して、財産没収、家人は慰み者、汝等神皇が腐らせた法よ。若くして死ぬは不憫なれど、クライネサンプ、貴様のような醜きものの慰み者にされるよりは、ましであろう、貴様ら神皇は清潔ぶって、今まで幾多のスファラドや色のついた人々を殺してきた?どれだけ乙女を慰み者にした?」
「おのれおのれおのれ」
悪行を言い立てられ、悪鬼に変わっていく司祭。
「喚け、クライネサンプ、我等スファラドは、流浪の民となってから、力が必要で、金を蓄えてきた、だが、武力を持たぬが故にこのような理不尽に遭う。しかし、我らは銭金だけではないぞ、金で買えない心意気も持っている」
シャイロックは胸を張った。
「この者の口に布を押し込め」
命じられて、兵がシャイロックを棒で叩きのめし、口を開かせてボロ布を咬ませた。
「どうだ、もう減らず口も叩けまい、心意気も語れまい」
シャイロックは口に布を押し込まれたまま、腹の辺りで身体を半分折り、それでも必死に首を持ち上げ、クライネサンプを睨みつける。
広場に一台の馬車が向かってくる。4頭立てで、漆黒に塗られた質素だが、剛健な馬車。
黒く塗られたドアに赤線で踊るイノシシが描かれている。
「シヴァの馬車だ、止めよ」
クライネサンプが下知をする。
「射掛けよ」
ドミニカニスの指揮官が命じた、ロングボォの射手が4人、馬車めがけて、広げた腕ほども有る長い矢を射掛ける。
うち、一本が馭者を射抜き、馬車が立ち往生した、馭者は身体に突き立った矢を掴み横倒しに馬車から落ちる。
馬車のドアが開く、紅い踊る猪が描かれたドアから栗毛の小柄な美しい女が降りてきた。
ヒルデガルドは息絶えた馭者を悲しそうに見ると、くるぶしまで埋まる雪の中をゆっくりと歩いて来る。
「ヒルデガルド」
ブルーダが呟く。
「ヒルデガルド、来るなぁああ」
次に叫び声を上げて、ドミニカニスに殴り倒された、鼻血が処刑台の上に積もった雪を赤く染める。
私は屋根を駆け降り、雪を蹴って台に駆け上がった。
「黒猫だ、悪魔の使者だ」
ドミニカニスが剣に手を掛けた。
「うにゃああああああ」
私の喉から威嚇の声が迸る、背筋が全部逆立った、小さな犬歯を剥き出しにする。
ブルーダの激情が私に移ったのだ。
白刃が振り下される、台の私の居たところに食い込み、ドミニカニスは抜こうともがいた。人などに斬り殺されるほどモタモタしていたら、黒猫は務まらない。
「これは面白い」
クライネサンプが不気味に笑った。
「悪魔の使者よ、黒猫よ、あのシヴァの女の所まで駆けてみよ、汝が無事にあそこまで辿り着けば、皆赦してやろう」
司祭は尊大に言った。
クライネサンプが目配せをすると、ドミニカニスがスファラドの娘デライラの細首に縄をかけた。
デライラの目が大きく見開かれる、唇が少し開き白い歯が見える、美しい娘はどんな時でも美しい。
張り出したアームに掛けられたロープに引かれデライラの足が爪先立ちになる、つま先が床から離れたら彼女はロープでぶら下がる、観衆から悲鳴と歓声が上がった。
だが、デライラは宙で止まった。
鼻を潰され腫れ上がった顔の、ブルーダが脚を踏ん張り娘を抱えている。
デライラの身体を持ち上げたのだ。
ブルーダに見たことの無い気が張りつめている。
「行け、ネロ、ヒルデガルドの所へ走ってくれ」
鼻が潰れて鼻声のブルーダが叫ぶ。
「ふんっ、余計なことを」
クライネサンプが言うと、ドミニカニスの指揮官がピカピカ光る鎧通しの短剣を、後ろからブルーダの左肩甲骨に差し込んで引き抜く、血が樽から零れるワインみたいに吹き出した。
ブルーダは呻き仰け反ってもデライラの身体を離さない。
「ネロ、行けっ」
ブルーダが血を吐きながら叫んだ。
私は台を飛び降り走った。
群集の足元を抜け栗毛の美女が歩いて来る白い街道へ。
雪がグリップを下げるので、私は爪を出したまま走る、爪が石畳に掛かり駆動力は増すが、爪の根元が冷たさと石の抵抗で痛む、痛みはだんだんひどくなる。
私の周りに礫が飛んでくる、短い矢が飛んでくる。
嬲るような矢はバラバラと私の周囲に降り注ぐが、そこはダンスの名手たる私のステップ、一つとて当たる気遣いは無い。
だが、ただ一つのポイントで、捉えられるだろう、それをどう躱すか。リズムを考え、変調させながらだから、雪に痛む脚と足を取られ、思うように走れない、でも、走るしかない。
ブルーダの思いをこの身体に乗せて、私を飼わなければこんな窮地に陥らずに済んだ、異端審問に掛けられずに済んだ。
わかった、ならば、せめてブルーダの想い、ヒルダに届けよう。
矢を避けるために余裕がなく礫があたり、身体が揺れる、礫が腹に当たると口から息が漏れ出し、速度が落ちる、既に満身創痍だ。
走る走る、目の前に、栗毛の美女が腕を広げている、何故か懐かしさを覚えながら、しなやかな腕の中に飛び込もうとジャンプした。
私を追い越そうと矢羽が空を切り裂く音。思った通りヒルダが狙われた、ロングボォ、人の背丈程の矢、想定範囲内で、私は身体を宙でひねり、ロングボォを猫パンチで方向転換させた、長い長い矢はヒルダの足元に刺さった。
そこから再びジャンプしてヒルダの腕の中に飛び込む、そのとき、背筋が焼かれた、気付くと雪の中を転がって、勢いは背から突き出た矢がバウンドして止めた、私の胸から鏃が飛び出していた、激痛に焼かれる。
矢は長短ダブルで射られ、短い物が時間差で飛んできて私の背を貫いた。
ぬかったと悔やんだが、どうしようもない、前足で雪を掻くが、前足は動いていない。
私が口と胸から流す血が、雪を紅く染めている。
咳き込んだ、口から出た血が、また雪を染める。
「ハイネス」
栗毛の女が悲鳴をあげていた。
馬鹿な、叫んでいないで逃げないと、狙われる。いつも冷静なヒルデガルドがどうした。
三度(みたび)矢の羽が風を切る音がした。
蹄の音、大きな獣が傍らを通り過ぎた。ヒルデガルドをめがけた矢が剣で払い落とされる。
2騎が左右に別れ、私達と交錯する、漆黒の馬、名高いシヴァの駿馬グラーネ。きらりと白刃が見えた、シヴァ王の佩刀、宝剣バルムンク。
女王ルナが馬に気合を入れている、優駿は風のように速い。
続くは、鹿毛に跨った黒髪の女騎士。
二人の女騎士がドミニカニスに斬り込んだ。
刃を交える音がしない、二人とも抜群のフットワークで相手の剣をよけるから、つばぜり合いというものがない、二人がアクションするたびに、敵が一人倒れる。
妨げようとする兵を瞬く間に斬り伏せる。
黒髪の女騎士が台に駆け上がる、美しい黒髪のシヴァの司令官にクライネサンプが後ずさった。
「イシュタル、異端の悪魔め」
クライネサンプが憎々しげに言った。
「まだ、そんなことを言っているの」
イシュタルは右の頬で笑うと、ジャポネスク風の刀を水平に薙いで、クライネサンプの首を刎ねた。
噴水のような動脈血に吹き上げられた首が、台の下へごろごろと転がる、身体は椅子に座ったままだ。
群集が広場から逃げ惑う、ドミニカニスが振るう白刃から逃れるためだ。
女王とイシュタルは市民を守る為に白刃を振るう。
ドミニカニスの剣に掛かり倒れた者の中にパン屋のベーカーが居た。
市民が逃げ、ドミニカニスが後を追う、すると広場の後ろ側から、黒い甲冑の騎馬軍団が駆け込んだ。
白銀の甲冑、ドミニカニス=神の犬は、紅い踊るイノシシの蹄にかけられ、さんざんに斬りたてられ負傷者や死者を残し、ちりぢりに逃げていった。
シヴァの兵の胸当てにあるイノシシを懐かしく見ていた。
灰色の空が揺れる、ボタン雪が踊っている。私はヒルデガルドの腕の中に居た。
ヒルデガルドが私を抱いたまま、台にあがる、ブルーダは、デライラの身体を支え、立ったまま息絶えていた。
シヴァの兵ゾルダートによって、デライラは降ろされ、ブルーダは台の上に横たえられた。
かっと見開いた目をヒルデガルドの小さく美しい手が優しく閉じてやった。
「成長したのね、ブルーダ。女の子を一人、助けたのだもの、褒めてあげる」
ヒルダは眼を細めて笑った。
「うにゃん」
私は首を左に捻った。察したヒルデガルドの手が紅いリボンを解いた。
「成長してないや、こんなもの描いて」
それはブルーダが一番心を込めて描いたポートレート。
ルナ女王の手に私の身体が移った。
「ネロ、ホーリーナイトと言う名前を貰ったのね、黒き聖夜」
私はブルーダのそばに横たえられた
「もうひとつ、名前を上げましょう」
宝剣バルムンクが抜かれ、私の身体に触れた。
「Kをひとつ足して
貴方は、聖なる騎士 Holly Knight」
何故か笑いたくなる気分だ。
あの日、ルナ女王がしてくれた昔話が、耳に蘇った。
智恵の女神の娘であるブリュンヒルドは、ジークフリートに智恵を授け、愛し合うようになった二人は歓喜の中で契りました。
乙女で無くなったブリュンヒルドは、神としての力を失い、人として老い、死を得て生まれ変わる運命を背負いました。
「神々よ、ごろうじろ、私は人になり、老い、死ぬ運命です、それでもジークフリートとの絆は永久のものです」
ヴァルキューレは想いました、死ぬ身体を得たことで、自分は初めて"愛"を知ったのだと、永遠の命を持たぬ人であるが故、より輝く愛。
それから、ヴァルキューレは人になり、生まれ変わる度に彼を探しました。
ただ、ジークフリートは浮気ものなので、今際の際に、ブリュンヒルドは彼の魂に噛み付き歯形をくっきりとつけました。
だから、ジークフリートは身体を持って生まれ変わると、痛みと共にほのかな想いを必ず抱き、いつの世でもブリュンヒルドを探しました
ルナ女王は私の頭を優しくなでながら、おしまいと告げた。
灰色の空から、雪が舞う、ひらひらと落ちて、私のぴんっとしたひげの先に引っ掛かった。ルナの手が私の頭を撫で、私は確かに笑った。
何も見えなくなった。
=終り=
《バンプオブチキン Kより》
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