淋しさはちゃんと今につながっている。
10月17日。昨日は一日曇っていたので、今日の晴れが嬉しい。
朝聞いた昨日の「大竹まことのゴールデンラジオ」で、大竹さんの所属事務所の芸人が、キングオブコントで優勝して嬉しいとお話しされていたので、今、それを見ながら書きはじめている。けど、肝心のコントに入る前の司会や審査員のやりとりが長い上にマチズモを感じて、すでに最後まで見られるか心配。そういうお決まりみたいなものだと思い込ませてしまえば良いのだけれど、いじったり、腐したり、年長者を持ち上げたりする感じがフェミニズムを学んで以降、ほんとうにダメになった。あと、芸人がパートナーを呼ぶ「嫁」という言葉。あれに影響されている人ってまぁまぁいると思う。そして司会者の脇にいるアナウンサー以外、男性である。司会者が、審査員やアナウンサーをいじる感じも見ていられない。一回気づくと、ダメになる。radikoプレミアムの会員になった数年前、はじめはよく芸人のラジオを聞いていたのに、今はひとつも聞いていない。お笑いは好きなのに、そこに残るマチズモがダメになってしまった。ひっかかりなくお笑いが見られる日がまた来るといいとも思う。
今朝はそのゴールデンラジオを聞きながら、家全体の掃除機をかけた。洗濯もした。昨日に引き続き私えらい。それから、機能していなかったゴミ箱の上段を空にして洗った。そこに缶やら不燃ごみをいれたらいいのに、いつもそのゴミ箱のうえにほいほい置いていた。こういう無駄なスペースの使い方がまだまだありそうだと思った。そうして手を動かしているうちに、ちょっとした瞑想状態になり(ご飯をつくる、車の運転をする、も私にとってはそう)、去年の今頃のことを思い出した。
去年の今頃、淋しさがあったこと。長く一緒に働いた同僚が海外へ行くということで職場を去ったのが昨年の今頃だった。その2か月前には、同じ期間一緒に働いた上司も異動していた。去年の春頃には退職を決めていたけれど、それでも残される淋しさのようなものがあった。記憶から意識的に消しているけれど、そこから年末に退職するまで、けっこう心が荒れていた自覚がある。「荒れて」は、暴言を吐くとか、やる気がないとかそういう方向ではなかったけれど、無口になり、消化試合のように淡々と働き、暇で人手が余ると給料が減ることなど気にせず帰ることを選んだ。明らかなモチベーションの低下だけれど、残る人たちへのわずかな罪悪感から、おもむろに態度に出すこともできず10月後半から年末まで、ひとり悶々と働いていた。その頃同僚によく言われていた「○○さん(私)が居なくなってからが本当にやばい」という言葉もしんどかった。だって、そんなこと絶対ないから。従業員が一人減っただけで回らなくなるお店なんて、もともと成り立っていない。言葉通りに受け取るなよと思われるかもしれないけれど、そういう持ち上げられるようなコミュニケーションがとても苦手だ。だから今日キングオブコントで見たような、持ち上げられてそれを受け取っている年長者のことは、ある意味すごいと思ってしまう。
話を戻す。私は去年の今頃、淋しかった。自分の退職は自分で決めたことなのでそれについては何も思わなかったけれど、毎日のように顔を合わせていた、信頼できる人たちとの日々が変わってしまうことに淋しさを感じていた。そうなることは、前から知っていたのに実際その日が近づくと淋しかった。その頃ちょうど猫が家によく来るようになっており、淋しくて猫をぎゅうぎゅうしながらポロポロと泣いた記憶もある。
けど、今日ふと思い出すまで淋しさを感じていた事を忘れていた。環境が変わっても変わらない関係性があったし、距離が出来ても平気な関係性があった。私にしては珍しい、センチメンタルなシーズンだったんだと思う。珍しいことだから書き残しておきたくなった。
それから、そのぽっかり空いた余白には次のものが入ってきている。あの淋しい気持ちや、そこから来るやさぐれた気持ちのようなものも、必要だったんだと思う。そうならずにうまく次の環境にスライドできたら良いのかもしれないけれど、昔から環境の変化に弱い。(のわりに、すぐ転職する。)
私はこういう自分の過敏で繊細な部分が嫌いではない。渦中にいる時はなかなかしんどいけれど、それを話せる相手がちゃんといる。実際、去年のあの頃のことも、近い人に「あん時、なかなかにやばかったよね。」と言われた。そうだよね、と思う。
「淋しい」と感じていたことはちゃんと今に繋がっている。決断をしたこと、淋しさをちゃんと消化したことで、今が幸せであることを感じられている。やっぱりどんな感情も気持ちも必要なものだ。