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ピン止めされる言葉。

6月21日(金)夏至 夜

猫がかわいくて仕方ない。今日は家の周りを散歩しました。猫はこの草ぼーぼースポットが気に入っていて、よくゴロゴロ転がったり、私から隠れているふりをしたり、サラダバーとして草を食したりしています。何していてもかわいい。

心が震えるというと、何かの歌詞みたいではずかしいのだけれど、本当に振動していると感じることがたまにあります。量子力学的にみても私たちは量子の集まりなので振動しているらしくて、だから言葉が響いて震えるっていうのは確かだと思っている。

自分の中に、ピン止めされている言葉がいくつもある。この間書いた、「連れてきてもらっている」という感覚、私を連れてきてくれているのはそのピン止めされている言葉だ。
人から、ラジオから、本から、音楽から、色々あるけれど、記録したり記憶したりして大切にしている。

何か行き詰まった時や苦しい時に、自分の心のしんどさを掬ってくれるのは言葉だと思っている。

定期的に聞き返すこのラジオ。その中でも哲学者・池田晶子さんの言葉が紹介されている。「絶望の淵にある人を救うのは医療ではなく言葉だ」と語られている。
(池田さんの言葉以外にも、この若松さんゲスト回は素晴らしい言葉だらけで、多くの人に聞かれて欲しいと常々思っている。)

平凡に暮らしているつもりでも、人生には色々起こる。とうてい自分の中だけでは抱えきれないこともある。人に話したり愚痴ったりすることで、その場は軽くなるかもしれないけれどそれで解決することは私の場合あまりなかった。あまりというか、ほとんどなかった。

どんなに似たような経験をしても、それを誰かと分かち合うことはできないと思っている。重なり合うところはあるので、寄り添うことはできるだろうけど、分かり合えるなんて到底ないと思う。
そういう時に、自分を落ち着かせたり立ち上がらせたりするのが自分にピン止めされている言葉たちです。
名言でもないし、よく聞くような言葉もたくさんある。
同じ文字の並びでも、誰に言われたか、いつ受け取ったかでピン止めされるされないがある。
例えば、共感されるのがとても苦手な私が「わかるよ。」と共感されて嬉しくなったことがある。振動する感覚があった。その時のことは、光景ごとピン止めしてある。
そういう震えを感じるには、やっぱり自分に余白があって、その言葉を享ける場所を確保しておくことが必要だと思う。嬉しいのは、言葉はいなくならないので、今まで集めてきた言葉たちがこれからも私を助けてくれるだろうこと。
なんとも心強い。

昔から、悩むと人に相談する前に本屋に行っていた。今は、自宅の本棚の前に立つ。ある程度の糸口を見つけてから人に話す。悩みも愚痴も、重量を少し自分で軽くしてからの方が伝わるような気がしている。もしかすると、もっと人に頼って自分をひらくことができていたら、生きやすさは増したかもしれないけれど、私はこの方法が気に入っている。

もうすぐ大好きな砂鉄さんのラジオがはじまるー。今日は桐野夏生さんがゲスト。桐野さんの小説も好きだから楽しみ。

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