非合理の先に
月日が経つのは早いもので、もう7月も半分が終わってしまった。今年はたくさんの書を読み、たくさんの映画を観て、たくさんの芸術作品に触れ、例え話の精度を上げようと試みている。インプットを怠ると時代に取り残され、ただただ老いていく。昔話だけをするような老人にはなりたくない。
同時にアウトプットの頻度を増やすことも試行している。可能であれば週に1度、少なくとも月に2度は800字程度の文章を書きたいと思っている。(厳密に言うと、これまでも書いてはいたが、公開はしていない。未公開作品はあればあるほどいい。)
最近観た映画の中では、「九十歳。何がめでたい」が1番印象に残っている。昭和平成の時代の流れとその中に身を置いた切なさを痛快かつユーモアたっぷりに表現されており、一見の価値がある映画だと思う。合理化合理化と寂しい世の中であるが、私は合理化自体には賛成だが、人間が人間であるために、使えるテクノロジーは使い、生み出された時間を知的生産や創作に充てることが大切だと考えている。物質的な豊かさは人間の生活を遥かに便利にしたが、その便利を活かせているかどうかが人間の真骨頂であろう。手のひらの端末で世界中と繋がったが、その端末ばかり見て、むしろ視野は狭くなっていないか。不必要な情報のために脳の容量を使ってはいないか。40,000kmが近くなったと言うのに、なんたることだ。与えられる情報もどんどん個人向けになっていき、よく見るコンテンツのみが表示される始末だ。(ちなみに私は転職希望者でもなければ、いかがわしい脱毛サロンにも興味はない。むしろ薄毛だ。抜くなんてとんでもない!嘆かわしい。)
少々取り乱したが、私は非効率の中にあるセレンディピティを信じている。必要性の乏しいものから見つかるものや、思いがけない出会いがあったりするものではないか。現代社会には、あそびがない。忙しなく生き急ぎ生み出した時間で何をしているのか。人類は非合理な生き物ではないのか。偶然に意味をもたらしたい。そうでなければ説明がつかないことが世の中にはたくさんだ。人生100年。私は何歳になっても偶然に感謝できる老人になりたい。