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「間」と「今」の関係について

ま と いま。
洒落ではない。

この前こんなことを書いた。

最後にちらっと、今にいられるようになったと書いた。
なんで「間」があると今にいられるようになるのか、書いてみようと思う。

なぜ「今」にとどまることができないのか。
それは、怖いからだ。
「間」つまり、境界線がない人間には、セーフティゾーンが(少)ない。
恐れは皮膚に密接し、すぐそばに迫っている。
いつも吹きっ晒しだ。

わたしは怖かったのだ。

今が楽しいなら、いつそれが奪われるのかを恐れる。
つらければ、もっとそれが酷くなるかもしれないと恐れる。
悲しいときは、この悲しみが果てしなく続いたらどうしようと恐れる。
ふと気づいて振り返れば、それはそこにある。
汚いなにかはすでにペッタリとわたしにはりついている、かもしれない。
360度どこを見渡しても今には恐れしかない。

一瞬でもどこかにとどまっていたくない。
動いている間は、恐れを感じなくてすむ。
そう感じていたのだと、今はわかる。

恐れというフィルターはわたしを孤独に突き落とす。
今にとどまれないわたしは、どこにも居場所がなく、いつもどこにいても安心できなかった。

よく、自分の中の女性性を育むという話のときに、今を味わうようにと言われる。
したいことをする。
着たい服を着る。
食べたいものを食べる。
眠たければ寝る。
やりたくないことはしない。
五感にそって、自分のわがままを叶える。

どんなにやっても、いつも気持ちがそれていた。
どうしても食べたかったものが目の前にある。
美味しい、そう思った次の瞬間にはもうわたしはいなくなっている。

それがなぜなのか、ずっとわからなかった。
こんなことで悩んでいるのは自分だけだと思っていた。
今は、なぜかだいじょうぶだと思っている。

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