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#15 可哀想な人に、もう恋はしない

こんばんわ。id_butterです。

人生で最高に不幸な時に恋に落ちた話 の15話目です。
介護職をしている友人と話すたび、「わたしはこういう人にはなれないな」といつも思ってしまうという話。

彼女だけでなく、わたしの周囲には介護職や医療関係、保育士や幼稚園の先生が多い。その人たちと話すと時折思う。
優しいということは、本来人間に備わっている才能で、それ自身が罪悪感を伴うものだったりしないし、優しくする理由なんて不要だということだ。

「やさしいね」と言われると、わたし自身いつもモヤモヤしてしまう。
うまく消化できないまま「そんなことないよ」と返す。
わたしは、自分をやさしい人だとは思わないし、やさしいことがいいことだともあまり思えないでいるのだ。

正直、わたしのやさしさは純粋な気持ちでできていない。
優しい人だと思われたいとか、あるいは冷たい人だと思われたくないとか、何なら優しくしなくてはという強迫観念だとかからなる。
例えば、横断歩道から歩道に段差で上がれない車椅子の方がいたとして、わたしはこどもふたりを乗せた自転車を歩道に止めて、その車椅子を押す。
もし知らんぷりしたら、その後何日か自分への嫌悪感で苦しむのだ。
…異常だ。自分でもわかっている。

困っている人を助けなくてはいけない、と言う謎の正義感、これは、どこから来るものなのだろう。
母親の呪いかもしれないと思う。
小さい頃言われた「困っている人には優しくしてね」に40年経つ今も知らぬ間に縛られているのかも。

さらには、誰かを助けてあげられるような人間じゃないと価値がないと今でもどこかで思っている。(自分自身のこともままならないのに笑)
これは諸刃の剣で、何もできない自分に価値を認められないということは、同時に何もできない誰かを価値がないと断罪することと同義だ。
自分が助ける相手を常に下に見ている、こんな優しさは迷惑でしかない。
そう思うと、偽善だと詰めよられるような気になる。

ダブルバインドだ。
助けなければ自分の価値を失い、助ければ偽善ではないかと苛まれる。
結果として人にやさしくすればするほどあるいはしなくても疲れてしまうことになった。自分の産んだ子ども相手へのやさしさですらそうだった。
わたしにとって「やさしい」とはこんな風に厄介なものだった。
そういえば、#10でも書いていたような気がする。

そもそも、何もできない誰かに価値がないという価値観は誤っている。
気づいたのは、長女の出産がきっかけだった。
目の前の神々しくすらある小さくて無垢な存在、彼女に価値がないとは到底思うことができなかったのだ。

介護職をしている友人と話していて、ふとこの人はこんなこと考えないんだろうな、なんでだ?と考えた。

答えはすぐに出た。
彼女は、自分が優しかろうが優しくなかろうがどっちでもいいのだった。
自分ファースト。子どもより自分。やりたくないことはやらない。
なんてシンプル。めまいがする。

問題もわかった。
わたしは自分自身に対してすら自分の気持ちが言えない、を通り越して自分の気持ちがよくわからないのだ。
「やりたくない」「あれが欲しい」「これが好き」「それがしたい」・・・・・・
”正しくない”気持ちたちはゴミ箱に捨てられて、なかったことになる。
きれいなものしか自分の中には存在してはならないらしい。

「ちゃんと」とはわたしの口癖で、”正しさ”が判断基準である証明だ。
子どもの頃、母親含め家族によく「わがままだ」と言われたものだ。
この「わがまま」でないことが ”正しさ” の原型だと思う。
生きていくにつれ、友だちに怒られたり世間体というものを知ったりする中で肥大化していったのだと思う。
出会ってきた誰かや何かがいう「正しさ」の集合体が "正しさ" の正体だ。

なぜわたしは、この ”正しさ” を必要としたのだろう。
わたしがわたしを好きじゃなくて、信じられなかったからに他ならない。

わたしは、この件は今回の離婚に関わると思っている。
タイトルの話がやっとできる。以前 #9 でただ好きだったから一緒にいたと書いたけど最近違うような気もしてきたのだ。

わたしの中に捨てられた ”正しくない” 気持ちたちが突然消えてつじつまが合わなくなることや自分の中の ”正しさ” による外的な影響だ。

例えば、わたしはよく痴漢に遭った。
「いやだ」と言うのは前述の通りわがままなので、言えなかった。その結果、母親には「汚い」と言われることになったことは #10 にも書いた。
優しい人は断れない人が多い。きっと昔のわたしと同じ理由なのだと思う。
なぜ痴漢という人種の方々は「自分より弱いやつ」を見抜く力がずば抜けているのだろう、今でも不思議だ。
母親も痴漢も悪くない、痴漢に遭うわたしが悪いという結論は自己肯定感をさらに下げた。(小学一年生だったのにまもってもらえなかったわたしがかわいそう、と今なら思う。)
それでも、自分が母親に愛されてない子どもだという結論よりはましだ。

あるいは、「やさしい」に並んで、わたしにとって扱いの難しいことばとして「かわいそう」と「同情」がある。
わたしの ”正しさ” において、「かわいそう」と「同情」は悪だった。
他の人は思ってもいいけど、わたしなんかが思ってはいけない気持ち。
だから、#13 のように「親ががんばってちゃんと育てた手がかからない子ほど、先生に見てもらえないなんて不公平じゃない?」と思った。
「かわいそう」と思えないわたしはかわいそうな子や弱い子にも平等に厳しくなってしまう。
小さな我が子にすら、間違ったやさしさで接しないように、やさしくなりすぎないように(平等にやさしくなるように)コントロールし、疲れ果てた。

結婚と離婚はどうだったか、ここから先書くのが、つらい。
別れたいと思い始めたのはいつからだっただろう。少なくとも、結婚する前、つまり10年以上前から思っていたような気がする。
この思ってから実際に行動に移すまでにかかった時間は、 "正しさ" を理由に自分の気持ちに見ないふりをしてきたことが原因だと思うのだ。
「経済的に困窮している人を見捨てる」
「自分を好きだと言ってくれた人を嫌いになる」
「子どもの父親を非難する」
「子どもがいるのに離婚する」
…どれもこれも悪でしかなく、 "正しい" 気持ちではなかった。
色々な気持ちをゴミ箱に捨て続けて、ちょっとずつ減っていく愛情に同情とかの不純物を混ぜてかさ増しし続けて自分をだましてきたのだと思う。
最後気付いた時には、すり替わっていて、愛情以外のものが残っていた。

今の結論を書いておく。

自分の気持ちに ”正しさ” は必要ない。
ただ、正直であればいい。

この結論を得るまでに20年かかった。
アダルトチルドレンという言葉を初めて知った時、カウンセラーの先生がおっしゃったことを鮮明に思い出す。
「この苦しさはいつなくなりますか」と聞いた20才のわたしに、「その傷は20年かかってできたものなのだから、癒すのにも20年かかるということよ」とその方は答えたのだ。本当にその通りになってしまった。

無意識を書き換えるのはほんとうに難しい。
自分の無意識の思考回路が迷路すぎて、追うのに大変苦労した。自分のことを守ろうとして積み上げた理屈にも疲れた。書かなくてもいいのではと何度も思った。
でも、自分の中でいっぱいになったゴミ箱を空っぽにするのは、今しかないような気がして、何度も泣きながら凹みながらこれを書いた。

あなたが結婚するなら、「誰にでも優しい人」「自分にだけ優しい人」どちらを選びますか?
20年前のわたしが考えたこの質問の答えは結構大事だと思っている。

20年前のわたしは「誰にでも優しい人」と答えたけど、今なら間違いなく「自分にだけ優しい人」と答えると思う。
わたしは、頭の回転が早い人が好きだ。会話が楽しい。
お金を持っている人が好きだし、一緒に旅行に行って美味しいご飯を食べたい。顔もスタイルもいい人ならなおさらよい。友だちに自慢する。
自分のことはさておき、だ。
本当のわたしは、優しくもないし、わがままで普通の女だ。
でも、そのすべてのわたしを受け入れて、正直に行きていきたい。

だから、もう可哀想な人にうっかり恋をしてしまうことはないと思う。

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