【人物月旦 #02】義兄のはなし
人物月旦の2回目は義兄の話です。この人物は、私の人生において特別な存在です。子供の頃から知っている人ではありますが、それでも「この人を完全に理解している」とは到底言えません。それほどまでに底知れない魅力と、不思議なオーラを持った人です。
これまで出会ったどんな人とも違う、型破りな性格と生き方。そして、何よりも私に与えた影響の大きさ。この人がいなかったら、今の私はまったく違ったキャラクターになっていたでしょう。それほどまでに私の人生観に強烈なインパクトを与えた人です。子供の頃から大人になった今でも、義兄の存在を意識する瞬間がたびたびあります。
今日は、そんな義兄との出会いの頃の話から始めたいと思います。それでは、本編をどうぞ。
義兄。私に影響を与えた「この人」
私にとって、人生で最も影響を与えた人といえば間違いなく「義兄」です。私の姉の夫ですが、その存在感は私の人生の中で特別な意味を持っています。最初の出会いは、私がまだ小学生だった頃。姉が大学時代に同棲していた相手、それがこの人でした。
当時、私は田舎の小学校に通う純粋な少年で、東京に住む姉はまるで別世界の住人のような憧れの存在でした。年の離れた2番目の姉がたまに帰省するたび、東京での話を聞くのが楽しみで、まるで外国の話を聞いているようなワクワク感を覚えていました。その姉が帰ってくるのが待ち遠しく、彼女の存在は私にとって「夢」や「未知」を象徴するものでした。
そんな姉と同棲していたのがこの人。私にとって「敵」でしかありませんでした。当時の親の価値観も相まって、未婚の娘が騙されているんじゃないかだの、挨拶にも来ないだのと、この人への怒りは家庭中で渦巻いていました。しまいには、この人の実家に怒鳴り込む事件まで勃発しました。そんな中、私も親族の一員として「もっとやれ、やれ!」と応援していたのを覚えています。
でも、私はそれだけでは収まりませんでした。お年玉を貯めて、親や姉に黙って東京に行く計画を立てました。小学4年生だった私が「姉をこの人から取り戻す」という一心で初めての大冒険に出ることにしたのです。
初めての東京、そして「かたばみ荘」
東京どころか、自分の街を出るのも初めてだった私が、どうにかこうにか姉の住む高円寺駅までたどり着けたのは、今考えると奇跡のように思います。住所を頼りに駅員や通行人に何度も聞きながら、鈍行電車や地下鉄を乗り継ぎ、やっとの思いで高円寺駅に到着しました。当時の私は、小さな体に大きな使命感を抱えた、ただの田舎の少年でした。
高円寺駅から、姉の住む「かたばみ荘」という二階建てのアパートまで行く途中、私は近くの公衆電話で姉に電話をしました。しかし、出たのは男の人――「こいつだな」と直感的に確信しました。ぶっきらぼうに姉の名前を出し、「代わって下さい」と言うと、彼は「姉はアルバイトに出ていて18時まで帰ってこない」と冷静に答えました。それでも私は食い下がり、「今から行くから待ってて下さい」と、小学生なりの精一杯の威圧感で伝えました。
「かたばみ荘」に到着し、玄関のブザーを押すと出てきたのは、もじゃもじゃの天然パーマにギョロっとした目、浅黒い肌の男の人でした。黒っぽいスウェット上下を着ており、無言で中に案内されました。部屋に入ると、この人は定位置のように畳にゴロリと横になり、文庫本を読み始めました。「なんて無礼なやつだ」と思いつつ、姉が帰ってくるのをひたすら無言で待ちました。
姉との再会、そして「対決」を待つ時間
時計の針が17時半を少し過ぎた頃、玄関のドアが開き、姉が帰宅しました。アルバイトを早めに上がらせてもらったらしく、手にはジェラートの入ったカップをいくつか持っていました。どうやら姉が働いていた駅ナカの漬物屋では、漬物とはまったく関連のないジェラートを販売していたらしく、アルバイト仲間の好意でお土産に持たされたようです。その無邪気に笑う姉の姿を見て、少し肩の力が抜けたのを覚えています。
姉はその場でジェラートを分けてくれ、私と義兄の分もテーブルに置きました。アイスクリームを手に取りながらも、私は目の前の義兄の様子が気になって仕方がありません。彼は相変わらず無言で、文庫本を片手にジェラートを一口ずつ食べています。文庫本に集中するその姿に、どうしても苛立ちを覚えずにはいられませんでした。「なんてやつだ」と心の中でつぶやきながらも、私は一言も口に出すことができませんでした。
一方で、姉は私と義兄の様子に気を遣うこともなく、終始明るく会話を進めていました。「これ、美味しいよね」「次はこの味も買ってみようかな」などと楽しそうに話している姉の声が耳に入ってくるたび、私は少しずつ自分の怒りが宙ぶらりんになっていくのを感じました。なぜなら、義兄も姉もあまりに自然体だったからです。この空気の中で「対決」を挑むことが、妙に不釣り合いに思えてきたのです。
長崎ちゃんぽん屋での「初体験」
その後、お腹が空いたという話になり、近くのちゃんぽん屋に行くことが提案されました。姉と私、そして義兄の3人で歩いて向かう途中も、私はずっと「このタイミングで何か言おうか」と迷い続けていました。しかし、義兄は相変わらず落ち着いた表情を崩すことなく、姉と世間話をするだけで、私に特別な関心を示す様子はありませんでした。
ちゃんぽん屋に入ると、店内はこぢんまりとしていて、どこか温かみのある雰囲気でした。カウンター席に座り、メニューを開いた私は、その瞬間目を奪われました。目の前に並ぶ「長崎ちゃんぽん」の写真は、私が知っているちゃんぽんとはまるで違っていたのです。運ばれてきた実物は、さらにその想像を超えていました。スパゲティのように太い麺、魚介の旨味が溶け込んだ濃厚なスープ、その上にはエビやイカがこれでもかというほど贅沢に盛り付けられていました。
一口食べた瞬間、思わず声が漏れそうになりました。それは、これまでに経験したことのない味わいで、ただただ美味しいの一言に尽きました。私の知っていた片栗粉のとろみがかかった塩味の「ちゃんぽん」とは、まるで別物でした。苦手だったはずのちゃんぽんが、たった一杯でこんなにも印象を変えるとは思いもしませんでした。
義兄の「普通」が生む不思議な魅力
ちゃんぽんを食べ終わった頃、義兄が姉と少し話し始めました。「この辺りに有名な芸能人が住んでいる」「その人がよく来る喫茶店がある」などという話題が交わされていました。当時の私には、都会のこうした話が非常に魅力的に映りました。田舎の小学生だった私にとって、テレビでしか見たことのない芸能人が現実に身近にいるという事実は衝撃的で、それを当たり前のように話す義兄の姿がどこか特別に見えてきたのです。
その後、義兄は私を喫茶店に連れて行きました。そこには、当時流行していたインベーダーゲームの筐体が置いてありました。私は一度もやったことがなく、義兄がカウンターで両替してくれた100円玉を目の前に置いてくれた時、心の中で「これをやってみろ」という挑戦を受け取った気がしました。ゲームが始まると、私は夢中になり、インベーダーが迫ってくるたびに手に汗を握りました。負けそうになると、義兄が代わりにプレイし、危機をあっさりと乗り越えてしまう。その頼もしさに、私は不思議と引き込まれていきました。
彼は無口で飾らない人でした。それまでは、その無愛想な態度がどうしても気に入らなかったのですが、この日を境に、彼の「普通であること」が不思議な魅力として私の中に刻まれ始めたのです。
アパートに広がっていた未知の世界
ちゃんぽんを食べ、喫茶店でインベーダーゲームを堪能した後、私たちは義兄のアパートへ戻りました。今度はさっきまでいた部屋とは別な部屋に通されました。姉と義兄が日常を過ごしているその空間に、初めて足を踏み入れた瞬間、私の目に飛び込んできたのは、それまでの自分の常識を根底から覆す「未知の世界」でした。
まず目についたのは、部屋の片隅に置かれた2台のビデオデッキ。昭和50年代当時、ビデオデッキ自体がまだ普及していない時代に、それを2台も所有している人がいることに、田舎の小学生だった私はただ驚くばかりでした。その隣には、レンタルビデオ屋から借りてきた映画のビデオが、まるで図書館のように整然と並んでいました。
義兄の部屋には、これまで私が知っている「家」という空間には存在しなかったものが、まるで当然のように置かれていました。それらは全て、私には非日常そのもの。ビデオデッキや大量の映画のビデオは、家で好きな映画が見られるという、当時の私には夢のような環境を実現していました。「すごい」と心の中でつぶやきながら、私はこの空間の虜になっていったのです。
壁一面の本棚と溢れる知識
さらに目を移すと、部屋の壁一面が本棚になっているのが見えました。その棚には、小説や芸術系の専門書がぎっしりと詰まっていて、まるで小さな本屋のようでした。私の家には数冊の漫画や児童書があるくらいで、こんなにたくさんの本を所有している人を初めて見ました。
「なんでこんなに本や映画があるの?」と姉に聞くと、姉は嬉しそうに「この人ね、芸大の大学院生で、映画にものすごく興味があるんだよ。今、映画のシナリオを書いていて、完成したら応募するんだって」と教えてくれました。その話を聞いた瞬間、私は言葉を失いました。それまで「姉の同棲相手」というだけで義兄をどこか軽んじていた自分が、急に恥ずかしく思えたのです。
義兄が映画のシナリオを書くなんて、私にとってはまるで映画そのものの話のように思えました。「映画って、ただ観るものじゃなくて、誰かが書いて作るものなんだ」ということを初めて実感した瞬間でした。さらに、姉から「この人、大学を出た後、南フランスを2年間放浪してたんだって。そのあと帰国して芸大に入ったんだよ」と聞かされ、私はますます義兄への見方を改めざるを得ませんでした。
南フランス。その響きだけで、当時の私にはまるで別世界の話のようでした。東京にすら行ったことがなかった小学生の私にとって、海外を放浪するというのは現実味のない冒険であり、その話を目の前の義兄が実際にしているという事実が、信じられないほど新鮮で刺激的だったのです。
「神」のような存在への変化
この日以来、私にとって義兄は単なる姉の同棲相手ではなく、「特別な人」、いや「神」のような存在になりました。それまで「敵」とさえ思っていた彼が、急にまぶしく、憧れの対象になったのです。
彼の影響で、私はそれまで興味のなかった映画や小説の世界にのめり込むようになりました。義兄が好きだと言った小津安二郎の作品を意味も分からず観たり、彼が話していたアガサ・クリスティーや筒井康隆の本を次々と読んだりしました。特に筒井康隆の作品は、まだ幼かった私にもその面白さが分かり、夢中で読み漁りました。
また、義兄が口にした映画や文学の話をそのまま友達に話すようになり、次第に「ませた生意気な小学生」として周囲から浮いていくようになりました。同級生たちが遊んでいる中で、私は評論家気取りで映画や小説について語り、妙に大人びた態度をとっていたのです。そんな態度のせいで、周囲から距離を置かれることもありましたが、そんなことは気にしていませんでした。
義兄との時間が私を変えた
お小遣いを貯めては東京へ行き、義兄と過ごす時間が何よりも楽しみでした。義兄は私にとって、知識や価値観を広げてくれる存在であり、新しい世界を教えてくれる「師匠」のような存在になっていました。
彼が持っている知識や経験の全てが私にとっては憧れで、彼の話す内容に追いつきたい一心で本を読み、映画を観る日々を送っていました。義兄と出会わなければ、私は映画や文学の世界に興味を持つこともなかったでしょう。義兄が教えてくれたのは、新しい世界への好奇心と、その世界に飛び込む楽しさでした。
義兄の成功と私の人生の変化
時は流れ、義兄が情熱を注いで書き上げたシナリオが、とある映画のシナリオコンテストに応募されました。その結果は、驚くべきものでした。見事に受賞を果たしただけでなく、その作品が著名な映画監督の目に留まり、トントン拍子で映画化が決定。そして、その映画が公開されると大きな反響を呼び、ついには東京国際映画祭でシナリオ新人賞を受賞するという快挙に至ったのです。
この知らせを聞いた時、私は自分のことのように喜びました。義兄が長い時間をかけてコツコツと努力してきた成果が、ついに形になったのだと思うと、本当に誇らしい気持ちでいっぱいになりました。その一方で、これまで義兄に冷たい態度を取っていた家族の豹変ぶりには、少しばかりの恥ずかしさを感じずにはいられませんでした。
家族の手のひら返し
義兄の成功の話はすぐに家族の耳にも入りました。以前は「挨拶に来ない失礼なやつ」などと言っていた両親が、完全に手のひらを返して、義兄を「自慢の息子」のように扱っていました。父は、義兄がインタビューを受けた雑誌を何冊も買い込んでは親戚や知人に配っていました。
いま思えば、この掌返しは、よくある人間の性のようなものですが、当時、少し恥ずかしさを覚えた記憶もあります。けっこうな反対をしていたのに、どうにも現金すぎるのではと感じていました。しかし、義兄はそんな家族の様子を全く気にする素振りも見せず、むしろ微笑ましく受け止めているようでした。それがまた彼らしい器の大きさを感じさせ、私は心の中で「やっぱりすごい人だ」と感心するばかりでした。
夢のようなテレビ局での体験
義兄は成功を収めた後も変わることなく、私に優しく接してくれました。忙しい日々の中でも時折家に呼んでくれ、芸能界の面白い話を聞かせてくれたり、映画やテレビの裏話を教えてくれたりしました。義兄の話はどれも興味深く、私にとってはその時間がかけがえのないものでした。
特に忘れられないのは、義兄がシナリオを務めたテレビドラマのクランクインを記念してテレビ局内で開かれた打ち上げパーティーに招待してもらったことです。小学生の私は、テレビ局というだけで緊張していましたが、その場に一流どころの俳優や女優が集まっていると知り、さらに心臓がバクバクしていました。
パーティー会場では、義兄が俳優や女優たちに私を紹介してくれ、「礼儀正しいいい子だね」と褒められる場面もありました。内心ではものすごく興奮していたのですが、それを悟られないように必死で平静を装っていました。それでも、きれいな女優さんやテレビで見たことのある俳優さんたちに囲まれて写真を撮ってもらった時は、さすがに夢見心地でした。
義兄の自由な発想への憧れ
義兄の成功とその生き様を目の当たりにしていた私は、自然と「こんな大人になりたい」と思うようになりました。特に彼の自由な発想や、枠にとらわれない生き方に強く惹かれていました。そして子供ながらに「自分は何をすればそうなれるのだろうか」と考え始めていたのです。
義兄が語っていた南フランスでの生活の話は、私にとって特別な響きを持っていました。海外での生活が彼の発想力や自由な生き方の原点なのではないかと、子供ながらに考え、短絡的に「自分も海外に行けば変われるのではないか」と思うようになりました。実際には、義兄の持つ才能や発想力は生まれ持ったものが大きいのだと思います。しかし当時の私はその深さまで理解することはできず、単純に「海外に行けば自分も変われる」と結論づけたのです。
義兄の影を追って海外へ
その考えを実現するため、私はアルバイトをして少しずつお金を貯め始めました。数年かけて貯めたお金を元に、10代後半から20代中頃にかけて、私はオーストラリアとイギリスに約5年間の遊学生活を送りました。その経験は、私の人生を大きく豊かにしてくれました。新しい文化に触れ、さまざまな人々と出会い、多くのことを学ぶ中で、義兄が語っていた「世界の広さ」を自分の目で実感したのです。
その後、私の人生には仕事での海外駐在やプライベートともに海外にいく機会が訪れ、訪問した国の数はゆうに30を超えています。それらの経験が私の価値観を広げ、人生を豊かにしてくれたことは間違いありません。そして、その最初のきっかけを与えてくれたのは、紛れもなく義兄だったのです。
義兄が与えてくれたもの
義兄の成功と生き方に触れたことで、私の人生は大きく変わりました。それは単なる憧れにとどまらず、具体的な行動として現れ、私を新しい世界へと連れ出してくれました。義兄がいなければ、私は海外へ行こうとも思わず、限られた世界の中で生きていたかもしれません。
義兄と過ごした日々、彼から受けた影響は、私の人生の根幹を形作る大切な要素となっています。義兄との出会いがなければ、私の人生はきっと今とは全く違うものになっていたでしょう。そのことを思うたび、私は義兄に対する感謝の気持ちがあります。
義兄との再会、そして感じた哀愁
大人になり、忙しい日々に追われるようになると、義兄とは次第に疎遠になっていきました。かつては頻繁に話をしていた義兄とも、会うのは家族の集まりのときだけになり、子供の頃のように親密に話す機会はほとんどなくなってしまいました。
久しぶりに顔を合わせた義兄は、昔と変わらぬ穏やかな物腰でしたが、どこか哀愁を帯びているようにも見えました。義兄の子供の頃のような勢いはすっかりなくなり、以前のような脚光を浴びることはなくなっていました。マイナーな作品を時折手掛けるだけという静かな生活を送っているようでした。
義兄と話すたび、私はなんとなく義兄の変化に寂しさを感じていました。もちろん、義兄自身はそんなそぶりを見せることはなく、昔と変わらず私に接してくれていました。しかし、私は勝手に「かつて神のように見えていた人が今はそうでなくなってしまったのではないか」と感じ、それを自分の心の中で処理しきれずにいました。
義兄との会話の中で、私はあえて過去の話を避けるようにしていました。成功のピークをとうに過ぎたように見える義兄を前に、過去の栄光を話題にすることが、彼を傷つけるのではないかと勝手に思っていたのです。また、そんな話題を持ち出すことで、自分自身がその差を意識し、悲しい気持ちになることを恐れていました。今振り返れば、それは私の一方的な思い込みだったのかもしれません。義兄は何も変わっていなかったのに、私が義兄を過去のイメージでしか見られていなかったのだと思います。
再び訪れた脚光の瞬間
そんな中、最近になって義兄の周りに変化が起こりました。義兄の処女作であるシナリオの映画作品がリバイバル公開されることになったのです。この作品は、有名監督によって映画化されたもので、公開当時は日本映画史に残ると評され、数々の賞を受賞した作品でした。その作品が再び注目を浴びることになり、SNSを通じて多くのファンが拡散。作品に根強い支持があることが明らかになるとともに、義兄自身も再び注目される存在となりました。
リバイバル公開を記念したイベントやインタビューに呼ばれることが増え、義兄の名前がさまざまなメディアに登場するようになりました。再び脚光を浴びる義兄の姿を見た時、私は心から嬉しくなりました。あの頃、私に新しい世界を見せてくれた「神」が、また輝きを取り戻したように思えたからです。
誇らしい気持ちと新たな決意
義兄が再び世間の注目を浴びる姿は、私にとって非常に誇らしいものでした。義兄が築き上げたものが時を超えて評価されるのは、彼が持つ本物の才能の証だと思います。そして、子供の頃の私にとって「原点」とも言える存在が、再び世の中にその影響力を示していることは、私自身の中にも大きな励みを与えてくれました。
義兄は決して過去の人ではなく、今もこれからも私に良い影響を与え続けてくれる存在であることを再確認しました。かつて彼の背中を追って夢を抱いたように、今度は私が自分の夢を叶え、誰かに良い影響を与える存在になりたいと思いました。
これからも続く「良い影響」
義兄の生き方や仕事が私に与えた影響は計り知れません。そして、彼の再ブレイクを目にした今、私もまた新たな気持ちで努力しようと思っています。義兄のように、何かを作り上げ、誰かに影響を与えられる存在になりたいという気持ちが強くなりました。
これからも義兄は、私にとって「良い影響を持つ人ナンバーワン」の座を譲ることはないでしょう。その存在が、私を支え、背中を押してくれる原動力になり続けているのです。そして、再び脚光を浴びた義兄が、これを機に新しいステージへ進むことを心から願っています。義兄がこれからどんな作品を生み出し、どんな影響を与えるのか――その姿を見届けるのが、今の私の小さな楽しみでもあります。
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