【人物月旦 #16】😁ある新聞販売店オーナーのはなし
「人物月旦」第16回目となる今回は、第3回目で少し触れた、CG制作の勉強を始めるための学費を確保するための過程についてお話しします。実際、この学費を確保するという作業は想像以上に大変な日々でした。
まず必要だったのは約150万円。この額を、日本語教師としての薄給で東京の生活を続けながら貯めるのは到底不可能だと判断し、私は地元に戻ることを決めました。そしてペンキ缶の倉庫で働きながら、短期間で目標額を達成しようとがむしゃらに働きました。その毎日は、ただひたすら目標に向かうだけで、まるで「倉庫番」というゲームの中で生きているような感覚でした。
しかし、専門学校への入学が迫る中で、私は一つの現実に直面しました。入学時に必要な学費を貯めても、それで全てが解決するわけではなかったのです。東京での生活費、専門学校2年目の学費、さらにはCG制作に必要不可欠なパソコンの購入費といった出費が頭をよぎり、入学前にこれらをどう工面するかを具体的に計画する必要がありました。
そこで私が目をつけたのが、「新聞奨学生制度」でした。この制度を利用すれば、学費を補うための奨学金を受け取りつつ、新聞配達の仕事を通じて生活費をある程度稼ぐことができます。この制度を選択したことで、私は夢に向けて次の一歩を踏み出すことができました。
こうして、早朝2時台に起きて新聞を配り、その後は専門学校で勉強に打ち込むという生活が始まりました。新聞奨学生としての日々は、まさに極限の労働環境に身を置くもので、決して楽ではありませんでした。それでも、この期間には一生に一度しか得られないような貴重な経験や学びが詰まっていました。通常の生活では出会えないような人々や出来事に恵まれ、多くの気付きや成長を得ることができたのです。
今回の「人物月旦」では、そんな新聞奨学生時代の特異なエピソードで得た気付きや成長、そしてお世話になった新聞販売店のオーナーについてお話ししていきます。それでは本編をどうぞ。
新聞奨学生制度との出会い
「新聞奨学生」という言葉を初めて耳にしたのは、入学後の学費や生活費の工面に頭を悩ませていた頃のことでした。当時、目の前に積み上がる金銭的な課題を前に、どこから手を付けるべきか途方に暮れていた私に、この制度は一筋の光のように思えました。しかし、その光は決して平坦な道のりを示すものではなく、厳しさと引き換えの希望であることを、後になって痛感することになります。
新聞奨学生とは、簡単に言えば、新聞社が学費を肩代わりする代わりに、学生が新聞配達をはじめとする業務に従事する制度です。朝刊と夕刊の配達、折込チラシの準備、集金業務など、学生生活とはかけ離れたルーティンが日々の中心となる生活。それでも、学費の心配をせずに専門学校や大学に通えることは、私のような経済的な事情を抱えた学生にとって、何にも代えがたい魅力的な選択肢でした。
ただし、この制度には覚悟が必要でした。配属先は自分で選べず、生活環境や業務内容は事前には分かりません。早朝2時台から始まる新聞配達、そして夕刊配達のため午後の授業に出席できないこともあるという厳しい現実。さらには、制度を途中で辞める場合には奨学金の一括返済が求められるという条件も、迷いや不安を募らせるものでした。
それでも私は、この制度を選ばなければ学びたいという夢に一歩も近づけないと腹をくくり、申し込みをしました。そして、無事に手続きが完了し、新しい生活が始まる3月を迎えることとなったのです。
新聞奨学生の厳しい現実
私が選んだのはS新聞でした。S新聞は他紙に比べて配達件数が少ないと聞いていたので、少しでも楽に働けるのではないかという浅はかな理由からでした。しかし、それが甘い考えだったと気づくのは、配達を始めてすぐのことです。
3月下旬、都内の新聞奨学生が代々木体育館に集められ、そこでS新聞社の関係者から新聞奨学生としての心構えについて説明を受けました。体育館には数百人もの奨学生がいて、それぞれの販売店のオーナーが迎えに来ていました。まるで奴隷商人に品定めされるような不思議な感覚がよぎりましたが、腹をくくり、自分の配属先である板橋区の新聞販売店へ向かいました。
到着すると、オーナーから厳しいルールが伝えられました。遅刻は罰金、ゴミ出しや掃除は持ち回り、食事は自炊が基本など、あれこれと細かな決まりが並びました。その他も説明の中で罰金という言葉が何回出たかわかりません。とにかく罰金の多さには驚きましたが、初日からこれに不満を言っても仕方ありません。「とにかくやるしかない」。そう自分に言い聞かせました。ただ、あの場で感じた「覚悟を試されるような空気感」は今でも忘れられません。
販売店の2階には奨学生たちが住む部屋がありました。私は三畳ほどの狭い一人部屋に案内されましたが、窓があって換気ができることにホッとしました。同じ奨学生は私を含めて4人。一番若いのは19歳、あとは21歳と24歳。私は当時25歳で、みんなより少し年上でした。24歳の先輩は大学を中退し、そのまま新聞販売店に居ついてしまった人で、当時は「奨学生の悪い末路の例」と少し暗い気持ちになったのを覚えています。それでも彼らはみんな親切で、仕事について丁寧に教えてくれました。
最初の数日は先輩と一緒に配達ルートを回り、荷受けから配達までを学ぶOJTの日々。ルートを覚えたらすぐに一人立ちです。しかし、S新聞が「配達件数が少なくて楽」だという話は、すぐに誤りだと気づきました。配達件数が少ない分、一件一件の距離が異常に長くなるのです。
特に厄介だったのは、防衛庁(当時)の団地です。この団地は古い5階建てでエレベーターがなく、各部屋が別々の階段に分かれている造りでした。たとえば、501号室に配達した後、別の階段を使って504号室に届ける必要があり、そのたびに5階まで上がったり下りたりを繰り返します。しかも、配達が遅れるとすぐにクレームの電話が販売店に入るため、常に急ぎ足でした。誤配などした日には学校に行く前にもう一度届けに行かなくてはならず、正確さが求められるプレッシャーも重なりました。
配達時間と学業の狭間で
また、配達について別視点の問題もありました。配達は原則として朝刊と夕刊のセットです。しかし、私はどうしても夕刊配達の時間帯に問題を抱えていました。学校が終わった後、充実したCG制作環境を備えた専門学校の自習室で居残り、ひたすらCG制作に打ち込むことが、CG制作者として技術を鍛えるための最優先事項だったからです。そのため、夕刊を配る時間を確保するのは受け入れ難い状況でした。
この事情をオーナーに相談すると、「そんな勝手は許されない」と一喝されました。ただし、「他の奨学生と調整して、業務が滞りなく回るなら構わない」と条件付きで了承を得ることができました。そこで、先輩の奨学生にお願いし、私の夕刊配達と彼の朝刊配達を交換してもらうことで、この問題を解決することにしました。
他の奨学生にとっても、午後の配達時間帯はきっと自分の用事や学業に影響が出る大事な時間だったはずです。それでも、「朝寝ていられるならラッキーだよ」と快く応じてくれたことには心底救われました。この協力がなければ、私は自分の成長のための時間を確保できなかったでしょう。その優しさと理解に、今でも感謝しています。
月末の集金も厄介でした。学校から戻ると、担当エリアを回って集金に向かいますが、不在の家は意外に多く、再訪を繰り返すことになります。時には居留守を使われることもあり、意地でも集金しなければならない私は顧客の在宅時間をノートにメモして、効率よく回れるよう工夫しました。それでも集金できなかった分は、わずかな月給から罰金として天引きされるため、必死でした。
さらに数か月に一度、勧誘最低1件のノルマも課されました。達成すれば5,000円のボーナスが出ますが、未達だと同額の罰金です。
勧誘の時期には「新聞拡張団」という外部の営業集団が販売店にやってきます。彼らの存在には驚かされました。メンバーは所謂「輩」と呼ばれるような風貌の人たちが多く、勧誘のやり方も尋常ではありませんでした。たとえば、契約を渋るお客さんに対して自分の義手を外して見せ、脅しのように契約を迫ったり、商店街で店で勧誘を断られると、違法駐輪の自転車をその店の前に並べ、営業妨害のような行為に及ぶこともありました。こんなことは当時の法律に照らしても違法行為だとおもいますが、こうした手法が暗黙のうちに許容されていたのは、今では信じがたい話です。
私は、彼らのやり方に関わるのだけは絶対に避けたいという一心で、今思えば、格好悪い行動だったとは思いますが、営業の経験もない若者が必死に考えた苦肉の策として、雨の日にわざと濡れて同情を買うなどして何とかノルマを達成しようとしました。
当時の新聞奨学生の仕事は、配達、集金、勧誘と学業の両立が肉体的にも精神的にも厳しいもので、たびたび追い詰められるような日々が続きました。その中で耳にした奨学生たちの噂話には、思わず言葉を失うような内容も含まれていました。特に衝撃的だったのは、苦しい状況から逃れるために醤油を飲んで病院に運ばれたという話です。
その背景には、当時、都市伝説のような話があって「苦役を免れるために醤油を大量に飲むと高熱がでるので無理無く休める」といったものがありました。それを真に受けて実行してしまった人がいたのだとか。もちろん、そんな方法が効果的なわけもなく、体を壊すどころか命に関わる危険な行為です。それでも、その噂話が現実の出来事として語られるほど、追い詰められた奨学生がいたのだと考えると、当時の新聞奨学生制度がいかに過酷だったのかを改めて実感せざるを得ませんでした。
私自身も何度か心が折れそうになりましたが、それでも「やりたいことを実現するためにこれを乗り越えなければ」という気持ちが支えになっていました。
初めての夏休み。覚悟して手に入れたCG制作環境
初めての夏休みを迎えた頃、私は「この時間を最大限に活用してCG制作に打ち込みたい」と考えていました。学校の自習室に通えば、集中できる環境で作業が進むだろうと期待していたのです。しかし、いざ夏休みのスケジュールを確認すると、校舎が思った以上に頻繁に閉まることが分かりました。このままでは、貴重な夏休みを無駄にしてしまう。そこで私は、自分の部屋でもCG制作ができる環境を整えようと、パソコンを調達する決意を固めました。
当時、3DCG制作ソフト「STRATA PRO」を動かすには、かなり高性能なマシンが必要でした。
動作環境として推奨されていたのは、コプロセッサを搭載したパワーマックの6100、7100、8100のいずれか。
これらはどれも非常に高価でした。さらに、それだけでは不十分で、メモリ(DRAM)の増設が必須。当時、8メガバイトのDRAMが1枚で12~13万円という驚くべき価格で、しかも最低でも2枚は必要でした。この時点で、かなりの出費を覚悟しなければならないことがはっきりしました。
秋葉原のソフマップや中古ショップを何度も歩き回り、破格の掘り出し物を探しましたが、そんな都合の良い商品は見つかりません。結局、ペンキ缶の倉庫番の仕事で必死に貯めた貯金を切り崩し、30万円を頭金として投入。それでも足りない分を補うために、60回ローンでパワーマック7100の新中古品を購入することにしました。
さらに、8メガバイトのDRAMを2枚増設し、最終的なローン総額は約50万円。これでようやく、最低限の制作環境を手に入れることができました。
この投資は、当時の私にとって非常に大きな賭けでした。しかし、それ以上に「この時間を無駄にしたくない」「CG制作に打ち込みたい」という情熱が勝っていたのだと思います。
汗だくの部屋とクーラー騒動
買ってきたパワーマックを部屋に運び込むと、早速制作環境を整えました。これで自宅でもCG制作に没頭できる準備が整い、私は時間を見つけては作業に取り組むようになりました。しかし、うだるような夏の日が続く中で、またしても問題が発生しました。部屋にエアコンがないのです。
窓を開けても熱気が入り込むだけで、作業中は汗が噴き出してきます。それだけならまだしも、問題はパソコンもすぐに熱を持つことでした。高温が続くせいで、たびたびPCがフリーズする事態に悩まされるようになったのです。
「なんとかしなければ」と考えながら帰宅途中、ふと立ち寄った駅前の中古家電量販店で、あるものを見つけました。それは、窓枠に挟むだけで使える一体型の縦長エアコンでした。工事不要で簡単に取り付けられるとのことで、実際に店員さんがデモンストレーションをしてくれたところ、意外なほどパワフルな冷風が出てきます。「これだ!」と思い、すぐに価格を確認すると2万円ほど。「迷う余地はない」と即決で購入し、その足で部屋に持ち帰りました。
狭い部屋に設置すると、みるみるうちに冷え始め、部屋全体がキンキンに涼しくなりました。これ以降、パソコンが落ちることもほぼなくなり、快適な制作環境がようやく整いました。しかし、予期せぬ問題がまた一つ。涼しさを求めて他の奨学生たちが私の部屋に入り浸るようになったのです。
私の三畳の部屋には、いつも数人が集まるようになりました。みんな座るスペースを見つけては居心地良さそうに涼んでいます。最初は少し窮屈に感じたものの、彼らが3DCG作品の感想をくれたり意見を出してくれたりと、思いがけずよいオーディエンスにもなりました。さすがに寝るときにはみんな自分の部屋に戻っていきましたが、それまではわいわいと賑やかな時間が続きました。
そんなある日、思いがけない事件が起きました。オーナーが突然怒鳴り声で私を呼びつけたのです。慌てて一階に降りていくと、テーブルの上に電気代の明細が置かれており、オーナーはそれを指さして「見てみろ!」と怒り心頭の様子で言います。電気代は先月の倍ほどに跳ね上がっており、彼は「お前、無断でクーラーをつけたらしいな」と詰め寄ってきました。
咄嗟に、私は自分の浅はかさを謝罪しました。「黙って取り付けたのは本当に申し訳ありません」と頭を下げましたが、「すぐに取り外せ」と言われたとき、私はどうしても引き下がることができませんでした。CG制作ができなくなることだけは避けたかったのです。
「上がった電気代は私の給料から天引きしていただいて構いません。どうか、このまま使わせてください」と涙ながらに懇願しました。オーナーは最初、「そんなことは知ったことじゃない」と突っぱねましたが、私の必死さが伝わったのか、最後には根負けして許可してくれました。
なんとか説得できた私は、ほっと胸をなで下ろしました。この一件で、快適な制作環境を守るためにどれほどの覚悟が必要か、そしてその環境がどれだけありがたいかを、改めて実感することになりました。
雪の日の事故。配達の厳しさと思わぬ代償
冬が訪れました。新聞配達には月に一度の休刊日以外、休みはありません。深夜2時、凍てつく空気の中で新聞をバイクに積み込み、今日も配達に出発します。そんなある日、東京に雪が降った朝のことです。いつも以上に冷え込みが厳しく、ジャージを2枚重ねてその上から厚手のカッパを着込み、軍手も2枚重ねて出発しました。バイクにはチェーンを装着し、慎重に走り始めます。
しかし、雪道は想像以上に危険でした。普段よりもスピードを落としてゆっくりと進んでいたものの、配達に時間がかかりすぎて焦りが出てきました。少しスピードを上げ、カーブを曲がった瞬間、タイヤが雪に取られ、バイクはスリップ。そのまま路上に停まっていたフォードの車に突っ込み、フロントバンパーに大きな傷をつけてしまいました。
幸いにも厚着をしていたおかげで、大きな怪我は免れました。膝に痛みはありましたが、命に別状はなく、ほっとしたのも束の間。衝突音を聞きつけて住人たちが外に出てきました。その中に車の持ち主がいて、怒鳴りながらこちらに近づいてきます。「どうしてくれるんだ!」と詰め寄られ、私はただただ平謝りするしかありませんでした。配達が途中であることを伝え、自分の氏名と電話番号、そして販売店の住所を伝えて「必ず後で連絡します」と言い、その場を立ち去りました。
配達を終えて販売店に戻り、すぐにオーナーに事情を報告しました。案の定、こっぴどく怒られましたが、販売店が加入していた保険のおかげで、バンパーは修理できることになりました。ただし、保険を使ったことで翌月から保険料が上がり、その上昇分は私の給与から天引きされることになりました。確かに数百円程度の金額ではありましたが、そのことがひどく理不尽に思え、自分の身は自分で守らなければならないと痛感しました。
この出来事をきっかけに、雪の日や悪天候の日の配達では、一層注意を払うようになりました。どれだけ急いでいても、無理をすれば自分にも相手にも迷惑がかかることを身をもって学んだ冬の朝でした。
クレームから始まった奇跡。オーナーの意外な一面
年が明け、2年目に入りました。3DCG制作の技術も着実に向上し、モデリングからレンダリング、ノンリニア編集まで一通りできるようになりました。制作スピードも上がり、ようやく効率的に作業を進められるようになった頃です。
少し余談になりますが、当時の3DCG動画制作には非常に時間がかかる工程が多く、特に動画のレンダリング後に編集したデータをプレビュー再生するのはPC上でわずか数秒が限界という時代でした。さらに時間がかかるのは、完成した動画をVTRに書き出す作業でした。たった1~2分の動画を書き出すだけで24時間もかかるのが普通で、途中でフリーズでもしようものなら、また1日が必要になります。自習室のパソコンには「絶対に動かさないでください」と大きく書いた張り紙を貼り、翌日まで作業が無事終わるのを祈る日々でした。これが当時の制作現場の現実です。
その年の12月、毎年恒例のキー局主催の3DCG動画コンテストが開催されます。当時クリエイターを発掘する目的で行われるこのコンテストには、専門学校などから多くの学生が参加します。それほど権威のあるメジャーな大会ではありませんが、そもそも当時3DCGを扱ったメジャーなコンテストもあまりありませんでしたし、私の通う専門学校で勧められたこともあり、今年そのコンテストに出場しようと決め、春頃から本格的に制作を開始しました。約8分の動画を作り上げる計画を立て、少しずつ作業を進めていきました。
毎日のように失敗を繰り返しながらも、少しずつカットをつなぎ、シーンをつなぎ、編集し、VTRに書き出していきます。最終的にはアナログ編集でテープをつなぎ合わせるという地道な作業も必要でした。夏休みはほぼ毎日制作に費やし、ようやく形になってきました。
9月、応募を済ませた後、10月に一次審査の結果が発表されました。500作品ほどの応募があった中から、30作品が選ばれる一次選考に私の作品も選ばれていたのです。その知らせに、飛び上がるほど喜びました。
最終決戦は、日本武道館で行われる予定です。
その前に、30作品から20作品に絞る選考会が行われます。選考会は飯田橋の会場で行われ、作品の上映に加えて、制作者が自分の作品についてプレゼンテーションを行う必要がありました。
私はプレゼンに備えるため、販売店で他の奨学生を相手に何度も練習を重ねました。彼らは私の緊張をほぐすように協力してくれ、的確な意見も出してくれました。こうして本番に向けての準備を着々と進めていきました。
そして当日、9時半に会場入りして10時から始まるコンテストに向かおうとしたときのことです。販売店の電話が鳴りました。ちょうど誰もいない時間帯で、嫌な予感がしました。電話に出ると案の定、「新聞が届いていない」というクレームの連絡でした。
他の奨学生が配ったエリアならまだしも、運が悪いことに、クレームがあったのは私が配達したエリアでした。届け先の住所や名前を書き残しておけば、後で戻ってきた奨学生が対応してくれたかもしれませんが、今回はそういうわけにもいきません。どうにも自分の運のなさを恨みましたが、誰にも文句は言えません。仕方がないと断腸の思いで予定を諦め、新聞を届けに行きました。
配達を終え、とぼとぼと販売店に戻ると、オーナーが驚いたような顔でこちらを見ています。「おまえ、なんでいるんだ?コンテストなんだろ?」と声をかけられ、私は「はい?」と少しびっくりした調子で答えました。なぜオーナーが私がコンテストに出ることを知っているのか、まったく不思議でした。それでも、新聞の再配達があった事情を説明し、「もう間に合いません」と伝えました。
「何時なんだ?」とオーナーが聞いてきたので、「10時です」と答えると、「馬鹿!まだ30分あるじゃないか。車を出してやるから急いで支度をしてこい」と怒鳴られました。「はい???」と最初は何を言われているのか分かりませんでしたが、オーナーの「急げ!」という声に押され、「はい!」と答えて慌てて着替え、急いで1階に降りました。すると、店の前には軽トラックがあり、オーナーが「とにかく急げ!」と言います。その言葉に従い、助手席に飛び乗りました。
軽トラックは、これと分かるほどの猛スピードで飯田橋まで走っていきました。状況が飲み込めないまま、私は半泣きで「ありがとうございます」と伝えると、オーナーは「そんなことはいいから、そのプレゼンで説明する内容を車の中で練習しておけ!」と言いました。私は震える手で紙を持ちながら、声を出して練習を続けました。
会場には10分ほど遅刻してしまいましたが、オーナーが怖い顔で係の人に事情を説明してくれたおかげで、しぶしぶながら中に入れてもらうことができました。そして、オーナーはそのまま軽トラックで走り去っていきました。
無事にプレゼンを終えた時、全身の力が一気に抜け、その場にへたり込みました。ただただ呆然としたまましばらく動けませんでした。我に返り、近くのベンチに腰を下ろすと、目の前の壁に向かって静かに涙を流しました。感謝や安堵、緊張の解放が一気に押し寄せ、涙はしばらく止まりませんでした。
販売店に帰ると、オーナーはいつもと同じ無愛想な態度で迎えました。コンテスト会場に車を出してくれたことに感謝を伝えようと、「本当にありがとうございました」と頭を下げましたが、彼は「そんなことはいい、忘れろ。もう話さなくていい」とぶっきらぼうに言うだけでした。その様子に、あれは一体何だったのだろうという思いが頭をよぎりました。普段は私のことなど全く気にしない態度のオーナーが、なぜあそこまでしてくれたのか。その答えは、結局最後まで分からないままでした。
掴んだ佳作。日本武道館の思い出
後日、作品は最終選考を通過し、日本武道館での上映が決まりました。
それから数週間が経ち、何事もなかったかのように日々が過ぎていきました。そして、日本武道館での最終審査の日を迎え、30作品から選ばれた20作品が武道館のスクリーンで上映されると聞き、緊張と期待が入り混じった気持ちでその場に立ち会いました。
審査員の中には、まだそれほど有名ではなかった「爆笑問題」の名前もありました。会場の雰囲気は熱気に包まれ、若いクリエイターたちの熱気がひしひしと伝わってきました。そして結果発表。私の作品は、3人が同率5位となる佳作に選ばれました。入賞ではありませんでしたが、それでも自分の作品が評価されたという喜びは大きく、胸が熱くなったことを覚えています。
ちなみに、私がコンテストに出品した作品の内容は、こんな感じでした。すべてフル3DCGで制作した短編作品です。
このシュールなストーリーに彩りを添えるため、挿入音楽にはベンチャーズの「パイプライン」を使用しました。
疾走感あるシーンを音楽が盛り上げました。
そしてエンディングでは、当時流行していたロス・デル・リオの「恋のマカレナ」に合わせて主人公と原始人、浪人生の3DCGキャラクタを一緒に踊らせコミカルな締めくくりにしました。
ユーモアと奇想天外な展開を詰め込んだこの作品は、自分なりに思い切り楽しんで作り上げたものでした。それが佳作に選ばれたことは、今でも忘れられない大きな喜びです。
嫌いなままでは終わらなかった救い。
販売店に戻り、オーナーに結果を報告するためにケーキを買って行きました。「ありがとうございました。佳作に選ばれました」と伝えると、オーナーは「よかったな」と一言だけぽつりと言いました。その短い言葉の裏に何が込められていたのか、正確には分かりません。それでも、あの無口なオーナーが私を気遣ってくれたのだと思うと、なんだか胸にじんとくるものがありました。
その夜、奨学生たちとお祝いをすることになりました。みんなで少しずつお金を出し合い、スーパーで牛肉と野菜を買い、すき焼きを作りました。狭い部屋で鍋を囲みながら、ねぎらってもらったあの時間は、今でも鮮明に覚えています。すき焼きの味も格別で、あの時の状況はこんなに幸せな時間があるのだと思えました。
2年間の奨学生生活は、こうして幕を閉じました。学校も無事に卒業し、奨学生の終了イベントではオーナーと一緒に新聞社の会議室に出向きました。会議室では、オーナーは周囲に人がいる時には私に「おめでとう」と笑顔で言っていましたが、二人だけになった瞬間、その口数は一気に少なくなり、何も言わないまま別れました。それが、いかにも彼らしい態度でした。
振り返ってみれば、新聞奨学生としての生活は、私にとって非常に特異な経験でした。新聞販売店のオーナーのことは、嫌いだと思っていた時期が長かったのですが、最後には彼の人間らしい一面に触れることができました。嫌いなままさよならせずに済んだのは、私にとって大きな救いでした。
この経験を通じて、今振り返りながら私は人間というものについて考えさせられました。オーナーが見せてくれた不器用ながらも誠実な態度を思い返すと、「根っからの悪人」というのは本当にいるのだろうかと思います。そういう人もいるのかもしれませんが、私はそうではないと信じたい。今でもそう考えています。
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