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【人物月旦 #12】😁小さな町の大きな学びのはなし

はじめに
このエッセイでは、登場人物のプライバシーを守るため仮名を使用しています。物語や感情は真実に基づいていますが、名前にとらわれず、本質や物語そのものを楽しんでいただけることを願っています。

👇️本編要約
「人は人によって人となる」この言葉を実感した、イギリスでのジリアンとの出会いを綴ったエッセイです。異国の地で「第二の母」として私を受け入れてくれたジリアンと、小さな町チェルスフィールドの人々との交流を通じて、人とのつながりの大切さや真の思いやりを学びました。支え合い、寄り添い合うことで生まれる絆の尊さが、人生を豊かにすることを教えてくれる物語です。

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「人は人によって人となる」という言葉がありますが、その意味を深く実感させられる出会いが人生にはあります。私にとって、イギリスの地で出会ったジリアンとその暮らす街の人々は、まさにそんな特別な存在でした。

今回の『人物月旦』では、私にとって「イギリス時代の母」とも言える存在だったジリアンという女性について書こうと思います。イギリスに渡ったばかりの私は、右も左も分からない状態でした。しかしジリアンは、イギリスの歴史や文化、友人の作り方、パブの楽しみ方、郊外のロングウォーク、そしてイギリス料理やブラックジョークまで、ありとあらゆるイギリスの家庭文化を一から丁寧に教えてくれました。

初めて会った外国人である私に対して、ジリアンは嫌な顔ひとつせず、まるで息子のように親身に接してくれました。その優しさは一時的なものではなく、私がイギリスに滞在している間、ずっと変わることがありませんでした。彼女の温かさと愛情は、私にとってまさに「愛情の塊」と呼ぶべきものでした。

ジリアンとの縁は、私がシドニーに1年半ほど滞在していた頃に遡ります。(詳しくは人物月旦#4

当時、最も仲良くしていた双子のイギリス人姉妹がいました。彼女たちは私にとって大切な友人でしたが、その会話の中で、彼女たちの母親、ジリアンの名前を耳にすることがありました。その時点では名前を知るだけで、直接会ったことはありません。

そしてその後、私はシドニーから香港経由で帰国後、「一刻も早くイギリスに留学したい」という強い思いを抱くようになります。(詳しくは人物月旦#06

そして、その願いを実現するために、約10か月にわたる山籠もり(住み込み)の観光地アルバイトに飛び込みました。その観光地の山はマイカー規制がされており、途中でバスに乗り換える必要があるため、私はその乗り換え場所でバスの切符売りの仕事をしました。食費以外には一切お金を使わず、ただひたすら働き続けて、10か月で350万円程を貯めることができました。そして、ようやく念願のイギリス渡航が叶ったのです。

この話だけでもなかなかのボリュームがありますが、双子の姉妹とのエピソードや、なぜそんなに急いでイギリスに行きたかったのか、さらには10か月で350万円を貯めることができた仕事の詳細については、また別の『人物月旦』でお話しすることにします。あまりに詰め込みすぎると、まるで長編小説のようになってしまいかねないので。

話を戻します。イギリスへの初渡航の際、私は双子の姉妹に手紙を書いていました。そして、ヒースロー空港には双子の妹が車で迎えに来てくれ、その車に乗ってロンドンの南東にあるチェルスフィールド(Chelsfield)という小さな町に暮らすジリアンの家を訪れたところから、この物語が始まります。
それでは、本編をどうぞ。


「ハロー! あなたが日本から来た子ね?」

そう言いながら、ジリアンは初対面の私をまるで遠く離れた家族の一員のように抱きしめてくれました。そのハグの強さと温かさに、私は一瞬、彼女のふくよかな身体に完全に埋もれてしまい、思わず息が詰まるかと思ったほどです。ジリアンは50代後半、下半身が特に太めな体型でしたが、いつも太陽のようにまぶしい笑顔を浮かべていて、その表情を見ているだけで自然と心がほぐれていくようでした。

彼女は女手一つで双子の姉妹を大学まで育て上げた母親でした。亭主とは姉妹がまだ幼い頃に死に別れ、それ以来、たった一人で家族を支えてきたという話を後になって知りました。私がそんな彼女の家に足を踏み入れた時、まるで親戚の家に来たかのように温かく迎えてくれたのです。

その日、私はジリアンと双子の姉妹の家の一部屋を借りることになりました。イギリスでの新しい生活が始まるにあたって、何もかもが手探り状態でしたが、ジリアンは丁寧に家の中を案内してくれました。台所の場所、バスルーム、リビングの隅々まで、まるで小さな子供に戻ったような気分で案内されました。ジリアンの言葉はときおり早口で聞き取れないこともありましたが、彼女の笑顔がすべてを包み込み、「分からなくても大丈夫」と安心させてくれるようでした。

翌日から、ジリアンは私を家の周りや街の中に連れ出してくれました。街並みやスーパー、郵便局、カフェ、パブなど、生活に欠かせない場所を一つひとつ案内してくれるジリアン。その道中、彼女は近隣の人々に手を振り、時には世間話を交わしながら、笑顔で私にこう言いました。
「あなたにも、ここがホームだと思ってほしいのよ。焦らず、少しずつね。」
その言葉に、私は胸がじんと熱くなりました。遠く離れた日本から来た私を、ジリアンはまるで本当の息子のように受け入れ、支えようとしてくれている。そのことが、何より嬉しかったのです。

ジリアンはただ街を案内するだけではありませんでした。車で近距離のエリアに出かけることもあれば、日によっては徒歩で散歩をしながら、私に土地勘を覚えさせるために毎日欠かさず一緒に歩いてくれたのです。最初の頃は、双子の姉妹も一緒に来てくれましたが、やがて彼女たちは飽きてしまい、散歩には付き合わなくなっていきました。しかしジリアンだけは、変わらず毎日私と一緒に歩いてくれました。

「さあ、今日も歩きましょう。こっちの道はまだ行ってないわね。」
ジリアンはまるで遠足の引率者のように元気で、歩くことそのものを楽しんでいるようでした。彼女の足取りはゆっくりでしたが、疲れを見せることなく、毎日私と一緒に町を巡り続けてくれたのです。

その散歩の途中、ジリアンはよく話をしてくれました。彼女が若い頃に苦労して子供を育てたこと、今の仕事のこと、そして双子の姉妹が小さかった頃の思い出。歩きながら彼女が教えてくれたのは、イギリスの暮らし方だけではなく、小さな歴史や文化、そして彼女自身の人生の断片でした。
そんなふうに、ジリアンの思い出があふれる道を一緒に歩き、私は少しずつこの街が好きになっていきました。

ジリアンとの散歩は日課になり、私にとってこの時間は日々の楽しみであり、安心できるひとときになりました。彼女のまぶしい笑顔と温かいハグ、そしてどこまでも尽きることのない愛情に包まれて、私の「イギリスでの生活」はゆっくりと形を成し始めたのです。

生活の中のパブとの出会い

ジリアンは夕飯を食べた後、よく町と同じ名前の「チェルスフィールド」というパブに連れて行ってくれました。パブの入口には「サルーン」と「パブリック」と書かれた2つの扉がありました。ジリアンは私にその違いを教えてくれました。

「サルーンはね、少し静かで上品な雰囲気なの。昔は、女性や家族連れが入りやすいように分けられていたのよ。パブリックはもっとカジュアルで、地元の人たちが気軽に立ち寄ってお酒を楽しむ場所。だから、こっちは賑やかで混んでいることが多いわ。」

ふと、サルーンの扉を覗くと、そこには混雑もなく、上品そうな婦人とその娘らしき若い女性が食事をしているのが見えました。彼女たちは静かに談笑しており、その落ち着いた姿が妙に印象に残りました。ただ、その時はあくまでさりげない風景の一部にすぎませんでした。

私たちはジリアンに案内され、パブリックの入口から入りました。中は壁で仕切られ、サルーンとは別空間のように見えますが、カウンターの中ではスタッフが行き来できる構造になっています。パブリック側はまるでお祭りのような賑わいで、男女、子供、さまざまな年齢層の地元の人たちで溢れていました。

ジリアンと一緒に席に着いた途端、周りのご近所さんが珍しそうに私の方へ近づいてきます。東洋人がこの小さな町のパブにいること自体が珍しいのでしょう。「この子はどこの国から来たんだ?」と興味津々に尋ねられました。ジリアンは笑顔でこう答えました。

「私の新しい息子なのよ。」

すると、ご近所の一人が「それじゃあ、新しい息子の誕生を祝おう!」と言い出し、私とジリアンに1パイントのビールをおごってくれました。それを飲み干すと、次のご近所さんも「今度は私が!」と次々にビールをおごってくれ、気がつけば何杯ものビールが私の前に並びました。

ジリアンは私に小声で教えてくれました。
「パブではね、自分が飲みたい時には周りの人の分も一緒にオーダーするのよ。それを順番に繰り返すの。」

なるほど、そういう仕組みかと納得しました。お酒が入るにつれ、私はすっかりご近所さんたちと打ち解け、名前も聞かれるようになりました。しまいにはカウンターの中のマスターまで出てきて、気前よく「今日は俺のおごりだ!」と店にいる全員にビールを振る舞いました。その瞬間、パブ全体が歓声に包まれ、みんなが笑顔でグラスを掲げました。

そんな大騒ぎの中、ふとカウンター越しの向こう側を見やると、サルーンにいた婦人が怪訝そうな表情を浮かべているのが目に入りました。しかし、その時の私は楽しい気分でいっぱいで、そんな細かなことは気にしていませんでした。

この日以来、私は頻繁に「チェルスフィールド」のパブに通うようになりました。通い続けるうちに、地元の人たちとも顔見知りになり、名前で呼び合うほどの仲にまでなりました。パブには必ずダーツがあり、みんなで競い合うのも恒例行事のようでした。勝者は負けた人全員からその日のビールをおごってもらう。まさにシンプルで楽しい「イギリスらしい文化」そのものでした。

オーストラリアで多くのイギリス人と接した時の印象と同じく、このパブに集まる人々も本当に素晴らしい人たちばかりでした。彼らの気さくで陽気な性格は、私にとって異国での生活を心地よいものにしてくれました。

時には学校が終わった後、一人でパブに立ち寄ることもありました。夕方のまだ客がまばらな時間帯には、マスターがカウンター越しに話し相手になってくれました。私はビールを飲みながら、自分がここに来た経緯。シドニー時代の友人、ジリアンとの出会い、そして日本で苦労してお金を貯め、ようやくイギリスにたどり着いたことを、熱っぽくマスターに語っていました。

「お前、よく頑張ったな。」
マスターのその言葉が、なぜか胸にしみました。

こうして、チェルスフィールドのパブは私にとってただの飲み屋ではなく、地元の人たちとの交流の場、そして心を許せる大切な居場所になっていったのです。

「東洋人の息子がイギリスの母を泣かせた」出来事

イギリスでの生活に少しずつ慣れ始め、ようやく日常が落ち着いてきた頃、突然事件が起こりました。ジリアンが近所で車同士の接触事故を起こしてしまったのです。

事故の原因は、ジリアンが一時停止をしなかったことで、過失相殺の結果、彼女の責任が大きいとされてしまいました。さらに最悪だったのは、相手の車の修理するための車両保険が未加入で、修理費がすべてジリアンに請求されることになったことです。その額は5000ポンド程だったとおもいます。日本円で当時80~100万円ほどでしょうか。ジリアンにとって、そんな大金を一度に支払うことなど到底不可能でした。

事故の相手は、パブの「サルーン」で時折見かけていたあの上品な婦人でした。町の小さなコミュニティの中で、すぐにこの出来事は広まりました。その日の夜、パブの「チェルスフィールド」に行くと、パブリックの賑やかな雰囲気はどこかしんみりとしていて、皆がジリアンを気遣っているようでした。ご近所さんたちが「少しずつカンパしよう」と言い出しましたが、誰もが生活に余裕があるわけではなく、それは「焼け石に水」といった状況でした。しまいには、「金持ちが貧乏人をいじめて楽しいのか」と、冗談とも皮肉ともつかない言葉が飛び交い、気を紛らわせるような始末でした。

その様子を見ながら、私は何とも言えない衝動に駆られていました。

私はまだ、日本で苦労して貯めた貯金が残っていました。そのお金でジリアンの肩代わりをしてあげたい。その思いが、頭から離れませんでした。しかし、それを実行すれば、学校を辞めて帰国せざるを得なくなる可能性もありました。当時、学生ビザでは働くことができなかったため、お金がなくなれば終わりです。それでも、私は衝動を抑えきれませんでした。

ある日、私は5000ポンドを封筒に詰め、パブのマスターのもとへ婦人の住所を聞きに行きました。そして事の経緯を説明し、そのお金を事故の相手の婦人に届けるつもりだと話しました。マスターは真剣な顔で私に言いました。
「本当にいいのか? そのお金がなくなれば、おまえは帰らなければならないんだぞ。」

それでも私は首を縦に振り、意を決して婦人の家を訪れました。婦人は最初、私を見て怪訝そうな表情を浮かべましたが、事情を説明し、ジリアンには内緒にしてほしい。婦人の保険で支払うことにしたことにしてほしいと言い、封筒を差し出すと、「お金さえ払ってくれればいいのよ」と言って受け取ってくれました。その帰り道、私は一抹の後悔を抱えずにはいられませんでした。せっかく苦労して貯めたお金なのに、これであとどれくらいイギリスに残れるだろう。働けば何とかなるか…そんな不安が頭の中を巡り続けました。

その夜は、何もかも早く忘れてしまいたくて布団に入ったものの、結局朝まで一睡もできませんでした。

翌日、学校が終わり駅に到着すると、改札付近でジリアンが待ち構えていました。遠くからでも彼女の顔が怒りに満ちているのが分かりました。

「なんてことをするの! あなたにとってどれほど大事なお金だと思ってるの!」

ジリアンはそう言って、昨日婦人に渡したはずの封筒を私に突き返しました。私は一瞬きょとんとして、何が起きたのか理解できませんでした。

ジリアンは切々と語り始めました。

今日、あの婦人がジリアンの家にお金を持ってきたというのです。パブのマスターが婦人に、私がどれほどの苦労をしてお金を貯め、イギリスに来たかという話をしたそうです。そして「そのお金がなくなれば、彼はここにいられなくなる」と、余計なお世話にも伝えに行ったのだと。

婦人は「そんな大事なお金は受け取れない」と言い、保険を使って修理費をまかなうことにしたので返すとジリアンに伝えたのでした。

「あなたの馬鹿な衝動のせいで、私は泣いてしまったわ。」

ジリアンは涙を流しながら、私を叱りました。その涙は怒りだけでなく、私を思う母親のような優しさに満ちたものでした。

それからというもの、チェルスフィールドの小さな町では、「東洋人の息子がイギリスの母を泣かせた」出来事は、あっという間に話題となり、道を歩いていると誰からともなく声をかけられるようになりました。誰もが微笑みながら「おまえ、やることが大胆だな」とか、「ジリアンはあんたのこと、本当に大事にしてるんだぞ」と言ってくれるのでした。

小さな町の大きな学びのはなし

この頃のことを振り返ると、本当に一生に一度かもしれないと思えるほど、私は幸せな時間を過ごしていました。周りには善良で温かな人たちしかいませんでした。そしてジリアンの存在は、改めて私に「家族」という言葉の本当の意味を教えてくれました。

あの事故の時の私の衝動やその後の展開を振り返ると、善意とは時に間違った方向に向かいそうになることもあります。しかし、ジリアンや婦人、そして町の人々の対応から学んだのは、「本当の優しさとは、相手の状況や気持ちを理解し、無理に背負わせず、寄り添うこと」だということです。自分ができる範囲で手を差し伸べ、相手が自分らしく前を向いて生きていけるように支える。それが真の思いやりなのだと気づかされました。

人とのつながりは一方通行ではなく、与えることと受け取ることの循環によって成り立つものだということです。ジリアンやチェルスフィールドの人々から受けた温かさや支えは、私の中に確かな「生きる指針」となり、今でも心の中に残り続けています。

ジリアンとの日々、チェルスフィールドの町での経験は、私に「人を思うこと」の大切さと、その思いが人生をどう豊かにしてくれるのかを教えてくれました。この学びは、いまも私の人生において、確かな糧として生き続けています。

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