見出し画像

探偵

白いチョークを持ち、黒板に今夜のメニューを書いていく。ぷっくりと身厚の秋茄子が手に入ったので、バルサミコ酢を効かせて焼き浸しにしてみた。赤ワインと相性がいいかもしれない。うずら卵の燻製、ベーコンとパプリカのケークサレ、ゴルゴンゾーラのブラウニー。次々と書きながら、私はふう、とため息をつく。燻製器やオーブンを使った料理が充実しているのは、暇な時間があったからだ。昨日の夜は二人しかお客さんが入らなかった。いつかゼロの日があるよ。飲食系の友人にそういわれているから、覚悟はしているけれど。午後八時。店の看板灯のスイッチを入れる。カウンターの照明をつけて、マックブックを開いて音楽を選ぶ。冷凍庫から氷の塊を出し、アイスピックを手にカツカツと削り始める。ウイスキーのロック用の丸氷を作るのはひどく地道な作業だ。まだ慣れないので、ひとつ完成するのに三十分近くかかることもある。トミー・ゲレロのインストゥルメンタルはクールな妖しさを孕んでいる。古い探偵映画のサウンドトラックのようだ。ベージュのトレンチコートを羽織り、ハンチングを目深に被った探偵。真夜中過ぎの張り込み。街灯に照らされた長い影。アイスピックはそうだ、犯人の凶器にふさわしい。尾けられているの、なんていいながらお客さんが扉から入ってきたら面白いな、と思う。たとえばショートカットの謎めいた美女が。全身黒ずくめなのに、唇には赤い口紅をひいて。アードベッグのストレートを。それとチョコレートある?彼女は私に尋ねる。ブラウニーでしたら。じゃあそれを。彼女はカウンターの左端の席に座る。今夜は冷えるわね、そういった彼女はコートを着込んだままだ。暖房を、と私がいうと、いいのよ、長居しないから、と彼女は答える。チューリップ型のグラスを傾けて、彼女はくいと一口ウイスキーを飲む。フォークでブラウニーを崩す。私は視線でその輪郭をなぞる。何度も。濃厚ね、美味しいわ。彼女がそういって、私はお礼をいう。余計なことを話してはいけない。私は必要もないのに棚に並んでいるワイングラスを磨き始める。沈黙が続く。彼女は時折俯いて目を閉じ、細い指先でこめかみを押さえる。なにも塗られていない爪が妙に艶かしい。バイブレーションの音が鳴って、彼女はポケットからスマートフォンを出す。指先でいくつか操作をする。グラスの残りを飲み切って、ここにいるのを気づかれているかもしれない、と彼女は呟く。裏口があります、私は彼女にいう。彼女は一万円札をひら、とテーブルに置いて立ち上がる。コートの襟を立ててポケットからサングラスを出してかける。私が戸惑っていると、取っておいて、迷惑かけるかもしれないし。そういって彼女は私を制す。裏口の扉を開け、私は彼女を逃す。よかったら道中で食べてください、私は小さく包んだケークサレをそっと手渡す。ありがとう、包みを受け取った彼女はにっこりと笑う。綺麗だ、と私は思う。どうかご無事で。裏口の扉がバタンと閉まる。花のような残り香がふっと漂う…。左手が冷たくかじかんでいることに気づき、私は氷を銀のボウルの中に置く。いつのまにか丸氷はできあがっている。この店に裏口なんてないし、そう思いながらちょっと笑う。あとで合間を見てもうひとつ作ろう。丸氷を冷凍庫にしまい、ボウルやアイスピックをざっと水で流して晒で拭く。カラン、扉が開く音がして私は目を上げる。ベージュのトレンチコートを着た猫背の男性が入ってくる。記憶にない顔だ。ひとりですけど、いいですか?はい、どうぞ。私は咄嗟に笑顔を作る。コーヒー、あります?にこやかに彼は私に尋ねる。はい、私は頷く。彼はカウンターの左端の席に座り、ポケットからマルボロの箱を出す。勤務中なのね、灰皿を出しながら私は心の中で呟く。だって姿がまるで探偵みたいだから。でもまさか。ポットに水を入れて火にかけ、ドリップコーヒーが入った銀色の缶を棚から取る。カチ、煙草に火をつける音がする。さっきまで、女性がひとり来ていませんでした?彼は私に尋ねる。その瞳には表情がない。ゆっくりと白い煙が立ち上っていく。私は缶のふたを手にしたまま立ちつくす。

#小説
#短編小説
#連作短編
#創作
#BAR
#バー
#BARしずく007
#赤い口紅


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?